大学生のとき、借りていた下宿の鍵について、ちょっとした悩みをかかえていたことがある。
そもそもなことを言えば、大学生が借りている安アパートだから、鍵なんてかけなくても、実はどうということはない。生命と健康の次に大事なノートパソコンを持ち出してしまうと、部屋に置いている最も高価なものはふるぼけたカラーテレビ、次はゲームの前世代機、というありさまである。泥棒だって、時給もなしにこんな部屋に侵入するのは嫌に違いない。それに、鍵をかければ安心かというとそれも間違いで、実際、ラグビー経験者の思い切った体当たりに抗して私の財産を守れるほど、すごい鍵ではなかった。心配性なので、ちょっとコンビニに買い物に行くにもいちいち鍵をかけていたのだが、いっそかけないで生活したほうが幸せだったかもしれない。
そんな鍵と私だが、相性はよくなかった。毎晩毎朝鍵を開けたり閉めたりしていたのに、部屋を出て、外から鍵を差し込んで、さあその次に、どちらへ回せば鍵がかかり、どちらに回せば鍵が外れるのか、それがいつまでたっても、ちっとも覚えられないのである。
いや、覚えられなくても、大きな不都合はない。左右に回してみて、回るほうに回せばいいのであり、せいぜい、そのあとノブを試してみて、ちゃんと鍵がかかっているかどうか確認すれば実用上の問題はない。ところが、この「回せるほうに回せば」というのが曲者で、この鍵だけの特質なのか、回らない方向にもある程度回る上に、途中の、もっともスピードが乗ってきたところで、突如としてガチン、という感じで回らなくなる。鍵というのはごつごつした彫刻が施された金属の板なので、ガチンとなると回している指がとても痛い。絶対的な痛みとしては静電気がパチンというくらいのものだろうが、覚悟していないのでいっそう不快なのだと思う。
私は悩んだ。左か右か、二者択一なのに、どうして覚えられないのだろう。一つには、同じ鍵と鍵穴を使って「閉じる」と「開く」の二通りの動作を交互にするという、そのあたりに問題があるのかもしれない。私はこの鍵を、朝出かけるときには閉じて、帰ってくると開くわけだが、ということは「鍵穴の前ですること」が二種類あって、両者の頻度は正確に等しいことになる。これが仮にオートロックの扉で、鍵を使ってする動作が「開ける」だけなら、正しい回転方向はすぐ覚えられるに違いない。
私のことだから、そんなオートロックの部屋には必ずや鍵を閉じこむに決まっているが、一応、解決策ではある。ほかにも、覚えられないならしかたがない、ドアに「開く」と矢印を描いた紙を貼り付けておく、という方法もあろう。
しかしこの安アパートにオートロックはないし、私は毎日無批判に生きていたので、張り紙という解決策にも思い至らなかった。鍵を回すときはそっと回す、などという消極的な解決策に頼ってしばらくしのいだのだが、急いでいるときなどすぐこれを忘れ、痛い思いをしていた。今思えばこれは、罰を与えても記憶力は改善しないという、一つの例かもしれない。勉強している子供を横で見張って、間違えるたびに手を叩いたとして、しかし子供の成績はあんまり上がらず、ただ子供の人生が不幸になるということである。いや、何か違う気もするが、少なくとも私はダメだった。
ところが。そんな日々を送っているうちに、痛みが知能を向上させたのではないと思うが、ふとあるとき、この問題が私の中で永遠に解決していることに気がついた。鍵が変わったわけではない。ドアに紙を貼ったのでもない。開くときにはどちら、閉じるときにはどちら、という内的なイメージが明確にできあがって、二度と迷わなくなったのである。
私はそのとき、痛む指をさすったりもしながら、部屋のなかでぼーっと考えていたのだと思う。この鍵の中身は、どういうふうになっているのか。今まで興味もなかったし考えてもみなかったが、何か機械仕掛けがあって、鍵の回転とドアのロックとの間を結び付けているはずだ。その機構は、どうなっているのか。
私は、今まで一度も鍵を分解してみたことがないので、中身は想像してみるしかない。なんだかよくわからないが、たぶん、鍵穴の周りには、大まかにいって円筒形をした部品があって、この中に鍵を突っ込んで回すと、正しい鍵なら回転する、という仕組みになっている。それが具体的にどういう仕掛けなのかはちょっとわからないが、とにかく鍵を回すと円筒が回るわけだ。そうすると、その円筒にはギアがついていて、それと「ラックとピニオン」のかたちでかみ合う、ぎざぎざのついた棒(かんぬき)が円筒の上にかみ合わせてあるだろう。つまり、円筒が回転すると、かんぬきが左右に移動する。このかんぬきが、ドアの枠にあるくぼみに差し込まれることによって、鍵がかけられるのだ。バネ機構とかいろいろあると思うが、ざっとはこういうことだろう。
ずいぶん粗いイメージだと自分でも思うが、少なくとも、一度そう考えてしまうと、鍵を回す方向は、完全に明らかになる。かんぬきとシリンダー、ラックとピニオンの関係を頭に置いて鍵を手にすると、明快で、迷うことなどまったくない。鍵が右回りのとき、棒が右に動くので、鍵は外れる。左回りにすると、棒が左に動き、鍵がかかる。どうして今まで覚えられなかったのかと思うくらいだ。
ただ、よく考えてみるとこれは「鍵を回す正しい方向」という知識を「円筒に棒が乗っている」という知識で置き換えたものに過ぎない。鍵の種類によっては、上の反対の挙動を示すものがあって、この場合は鍵の円筒の下側にかんぬきがかみ合っているものと思われる。しかし、実用性ということで言えば、これは続く数年間、私がそのアパートから引っ越すまで、毎朝毎晩立派に役に立ちつづけた覚え方なのだった。それくらい「シリンダー上のかんぬき」は、覚え方としてゆるぎないものに思えた。
ずっとあとになって、認知心理学の本なんかを読んで、上の「鍵の構造」のように、中身について勝手に想像したイメージを「内部モデル」と呼ぶらしい、ということを知った。人は、中身がわからない機械にあたったときでも、いちおう、それらしい内部構造を想像してみることがある。いわばそれは、ブラックボックスの構造に対する仮説、あるいはもののたとえである。
実際には、上の私の鍵に対するイメージは単純すぎて、部分的にはまったく間違っているものだろう。しかし、役には立つし、もののたとえとはそういうものだ。ある範囲内(この場合は鍵の回転方向を記憶するという目的)において、現象を矛盾なく説明できるものであればよい。鍵を分解して修理するような目的には、上の内部モデルでは歯が立たないわけだが、それは構わない。当面、鍵はちゃんと動いていて修理の必要はないし、もし必要があれば、そのときは別の、もっと正確なモデルを使えばよいのだ。
さて、そういう意味では最近気になっているのが、職場にある「お茶サーバー」だ。これは、自動給湯器と兼用になっているもので、いつでも熱いお湯が出てくるという、地球環境はともかくとして便利な道具である。私はよくこれでインスタントコーヒーを作って飲んでいる。普通の湯沸しポットとは違い、湯が切れるということがないので実に都合がよい。
そしてこの機械が、お湯を出すという機能のほか、別のボタンを押すとお茶が出るようにもなっているのだった。しばしば間違えて「お茶で作ったコーヒー」というわけのわからないものを(もったいないので)飲むはめになっているものだが、本当の話、これはどういう仕掛けでもって、お茶が出るのだろう。使うときに中から聞こえる、ガッチャンガッチャンという機械音からして、ある程度複雑な機構が中で動いている気はする。横に保管してある補給品を見ると、お茶の原料としてインスタントコーヒーみたいなお茶の粉ではなく、普通のお茶っ葉を使っているらしいというのが、少し奇怪である。私がひねり出した内部モデルは「中に小人さんが入っている」というレベルを一歩も出ないものだが、中を覗いてこのへんを確認する、そんな必要はない気もするのだ。
つまり、中を覗いてなんだか怖いことになっていたらお茶が飲めなくなるし、現状の目的にはこれで十分だから、である。今日もありがとう、小人さん。