渇きへの渇き

 そういえば長いこと「のどが渇く」という状態を経験していないのではないかということに気がついた。会社にいて、机で仕事をしているときは、だいたい傍らにカップに入ったコーヒーがある。なくなると新しいのを入れにいくので、カップが乾いていることはあまりなく、ということはのども渇くわけがない。家にいるときもだいたいこの通りで、ただ、コーヒーの代わりに酒を飲んでいる場合がある程度である。いずれにしても、のどが渇く状態とは無縁だ。

 このようにコーヒーばかり飲んでいると、気になるのが「コーヒーは健康に害があるのではないか」ということである。いや、あるに決まっている。そもそも、なんであれ、飲みすぎると健康によくないのだ。塩だって酸素だって水だって取りすぎると人間は死ぬ。納豆だって食べすぎはよくないのである。コーヒーについて現状特に何も言われていないのは、他のもの、たとえばタバコや酒、あるいは塩ジャケとかトンカツに比べて健康へのインパクトが小さいと考えられていて、かつ、人間何も飲まないとそれはそれで害があるからに違いない。

 しかし、この状態が将来にわたって続くとは限らない。人間は、かつてなんとも思わず飲み食いしてきたものを、次々と「害があるもの」のカテゴリに入れ、排斥してきた。食べたら即死するものは誰の目にも明らかだが、長期的に健康に影響を与えるなどという効果は、医学がある程度進歩し、また社会が安定して他の死因が目立たなくならないと、なかなかはっきりとはしない。戦争で明日をも知れない命なのにタバコの量を減らしても何にもならない、という意見は実際正しい。休肝日を設けてそれが長寿に確かに役に立つのは、社会が平和で十分に医学が役に立っている証拠といえる。しかしこれは逆に、さらに平和になり、さらに医学が進歩するに連れて、今まで害があると考えられていなかったことまで、害があるものに分類されてしまう、ということを意味している。

 ここのところ、ちょっと議論が複雑なので説明を重ねるが、たとえば我々は自動車で移動するが、これは長期的に見ればいつか交通事故にあって死亡するというリスクを甘受しているということである。日本において、年間一万人が交通事故で死亡するとして、さらにその十分の一がまったく自分は悪くないのに巻き添えで事故死すると仮定する。とするとどんなに運転に気をつけていても、日常の移動に車を使っているだけで、平均して一年間に約十万分の一の確率で(どんなに気をつけていても)事故死することになる。これはたいした確率ではない。百年これを続けてもその確率は0.1パーセントだからだ。しかし、もし寿命が一万年まで延びるとすると、話が異なる。一万年の間毎年車を使い続けると、この低い確率が「寿命に影響を及ぼす因子」として現れてくるのだ。一万年の間に交通事故で死ぬ人はだいたい十人に一人である。こうなると、自動車で移動しようという人はなかなかいなくなると思われる。

 とすると、このまま医学が進歩して寿命が延びてゆくと、将来いずれかの段階で、コーヒーが健康に害のある飲み物とされている確率は高い、と言わざるを得ない。こうなるとコーラやドクターペッパーはもちろん、オレンジジュースも紅茶も牛乳も健康に悪い飲み物に分類されていなければならないと思うが、コーヒーはいかにも「健康に悪い」という感じがするので、一番に詳しい調査がなされ、一番に害が確認されるような気がする(まあ、コーラ等よりは後回しかもしれない)。だいたい、一部の人が好きだが他の人はそうではない、というものは、なんによらずこうした扱いを受けやすい。嫌いな人にとってはコーヒーなんてなくてもかまわないし、むしろコーヒーに大金を費やす配偶者のことを苦々しく思っているはずである。コーヒーが好きな人のほうだって、こんなに良いものが健康に害がないはずはない、と思うのは、むしろ自然なバランス感覚ではないか。

 そうなると、おそらく今現在タバコが受けているような扱いを、いつかコーヒーも受けることになるのだろうと思う。まずコーヒーは成人しか飲んではいけないようになって、医者ではコーヒーの飲みすぎを指導されるようになる。コーヒーに多額の税金がかけられ、自販機に成人識別装置が義務化される。

 それだけではない。タバコがそうだが、いったん副流煙が問題になるということになると、骨の髄までタバコの臭いが嫌いになってしまう人というものがいるもので、これは「ヘビが嫌い」「虫が嫌い」とまったく同じ心理だと思うのだが、コーヒーだってそういう扱いを受けるようになるだろう。つまり、嫌う人はあのコーヒーの香りが耐えられなくなる。そこでまず、長距離列車やレストラン、ホテルの部屋が「コーヒー可」と「不可」の席に分けられる。吹きっさらしの喫コーヒー所というものが駅のホームに設けられ、そこでしか飲んではいけないようになる。空き缶のポイ捨てが(今でも大きな問題だが)さらに大きな問題になり、コーヒーの会社が「コーヒーにマナーを」というような大々的なキャンペーンを実施する。喫茶店でもコーヒーを扱わなくなり、自販機から缶コーヒーは駆逐される。

 もちろん、コーヒー好きが権利を求めて運動をするだろう。しかし、そういうのは健康という大目的の前には無力に等しい。これは皮肉で言っているのではなく、確かに健康というものは何ものにも代えがたいものであるからだ。しかも、一部のマナーの悪いコーヒー飲みが散らかした空き缶、他人の目の前で断りもなくコーヒーを飲みだす行為がそういう運動を台無しにするだろう。世代を経るごとに着実にコーヒー人口は減ってゆき、ますますコーヒー好きは社会の片隅に追い詰められる。昔はこういう会議でもみんなコーヒーを飲んでいたもんだけどなあ、と思ったり、平成の頃は自分の席でコーヒーを飲めたんだって?と子供に目を丸くして訊かれるようになる。そしてふとある日、自分でもコーヒーをやめてみると、コーヒー豆やインスタントコーヒーに高い金を出して常備したり、コーヒーのために火事の危険を犯して湯を沸かしたり、舌をやけどしたりこぼして書類にしみを作ったり、夜中にコーヒーの自販機を求めてうろうろしていた自分がなんて馬鹿だったんだろう、と思うのである。なければないで、確かになんとかなるものだからだ。

 そういう日が来ないように、今我々にできることは何か。おそらく、空き缶や紙コップを拾い、コーヒーをこぼさないように努力をし仮にこぼしてしまったときは速やかにかつ丁寧に後始末をし、また飲みすぎを互いに注意することだと思う。コーヒーがいつまでも安楽に飲み続けられることで得をするのは今現在コーヒーが好きな人で、コーヒーが好きではない人には、そんな努力をする必要はまったくない。コーヒー飲み全体の印象をよくする、積極的な必要があるのはコーヒー飲みだけと言えるのだ。コーヒーは健康によいなどといったキャンペーンをやっている場合ではない。内部的な粛清こそコーヒー飲みに残された、唯一効果のある運動ではないだろうか。立て、そして戦えコーヒー飲み。お互いに対して。

 しかし、現状、吸殻を道端に捨てる人に対して、タバコを吸う人が積極的に注意しないところを見ていても、まあ、こういう活動は不可能であるので、どうしようもない話だとは思う。だいたいまあ、あれだ。考えてみると、コーヒーなんて、どちらかと言えば、きっぱりとやめてしまったほうがいいのである。そういうものではないだろうか。


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