殖やされた私

 通りを歩いていて、向こうから歩いてきた人間のことを、誰だろう、と一瞬だけ思った。すぐ気がついて、あまりといえばあまりのことに自分のことが馬鹿に思えて仕方がなかったのだが、向こうの様子を見ると、どうもあちらも同じことを思っているらしかった。わざとらしく目をそらす様子が、我ながら腹が立つ。

 吉野聡明、というのが私の名前だ。いや、名前だったはずだが、今は誰も私のことをそんなふうに呼ばない。「主人」は私の名前が何かなど、まったく気にしないし、私同士の場合、なにしろ私同士なのであちらも聡明こちらもサトアキで、名前に何の意味もないからである。といって名無しのままではなにかと不便なので、しかたなく私たちは、生まれたときに与えられたシリアルナンバーでお互いを呼び分けている。私は、もちろん自分のことは「聡明」だと思っているわけだが、対外的には一六七二六二一である。つまり、この惑星にすでに百六十万人以上の私がいることになる。これは恐ろしいことだ。

 この惑星、と私は言ったが、これが本当はいったいどこなのか、私はよく知らない。本来は「主人」が私たちに、そういったことを教えてくれるべきだと思う。それが、誘拐するにしても最低限の仁義だという気がするのだが、「主人」はそんなことにかけらも興味を持っていないのだった。私が造られたときに横にいて、最初の軽いパニックのとき以来、しばらく私の助けになってくれた教師役の一〇五四五七一は、それはたえず私たちの話題にのぼることだが、あまり深く考えないほうがいい、と言っていた。答えはないし、知ったところでどうということもないからだと。私が見たところ、私よりずいぶん年老いている一〇五四五七一の額には、深い諦念が刻まれているように見えた。

 今の私の額にも、同じ諦念が刻まれているのだろうか。確かに、知ったところでどうしようもなかった。それからしばらくして私にもわかったことだが、逃げ出す方法はないし、仮に逃げたところで、どうしようもないのである。私の頭に「プリインストール」されている記憶と、あとは、だいたいこうではないか、という想像なのだが、「主人」はあるとき、私が暮らしていた二〇世紀の地球日本東京を訪れ、オリジナルの私を誘拐した、らしい。私は二二歳の春まで日本で暮らし、教育を受けていた。まじめに教育を受けていなかったせいで、就職も決まらず、さあ四月からどうしようか、と思いつつ、どうしようもないのでその日もアパートの自分の部屋で、酒を飲んで寝たわけだ。それで、起きたら、横に一〇五四五七一たらいう私が立っていたのである。とてつもないことだ。

 もっとも、よくある宇宙人の誘拐説みたいに、本当に、肉体的に誘拐したのか、それとも、オリジナルの私の情報を何らかの手段でスキャンしただけなのか、それはよくわからない。なんとなく、後者のような気はする。番号からわかるように、百万人以上の私が私よりも前に製造されていて、そういう技術を持っている以上、オリジナルの私を物理的に誘拐する必要はない気がするからだ。そんな技術がどうやったら実現できるものか、平凡な二〇世紀人である私には、さっぱりわからないが、とにかく、そういうわけで、この惑星においては、私は製造される存在なのである。たぶん遺伝子情報を元にクローニングされて、誘拐当時の記憶まで完璧に再現されて造られる。そうして、しばらく教育を受けたあと「主人」の下働きとして異星の社会に送り出されるのである。

 私たちを働かせて、「主人」はというと、働く気がないらしい。といって、私たちがやるべきことは、畑を耕したり工場で働いたりすることではなくて、たまに起こる事故の後片付けや、わけのわからない原理で動いて社会を支えている機械の、部品の交換くらいである。あとは「主人」たちのちょっとした身の回りの世話にすぎない。私もアルバイトでそういう経験があるが、忙しいバイトだと、人は同僚に仕事を押し付けたがるものだ。ところが、あるレベル以上暇である場合、今度は逆に、バイト同士で仕事の奪い合いが起こる。面白いもので、暇ならいいか寝ていようとはならないで、かかってきた電話を奪い合うようにして出るようになるのだ。今もそんな感じだった。ここまでやることがないと、反乱しようとかそういう気にはまったくならず、むしろ何か歯ごたえのある仕事はないかと探し回るようになってしまう。

 そこが、私たちには解きがたい疑問だった。高度に自動化され、ロボット化されて、もともと働く必要がほとんどないのに、そのわずかな労働さえ嫌になって、私のような存在を地球から誘拐してきたのだろうか。どうも、割に合わない気がする。ここも「主人」が説明してくれないので、さっぱりわからないところである。こうやって、わからないなあ、と思いながらなんとなく流されて、家事をまじめにこなしている私だからこそ、「主人」は誘拐してきたのかもしれないとは思う。

 ただ、これも私の想像に過ぎないのだが、私の性格に加えて、「主人」が私の姿を、美しい、と思っているという、そんな可能性はもしかしたらあるかもしれない。「美しい」ではなく「いいにおいがする」とか「いい音を立てる」とか(ただし「主人」は私たちを食べたりすることはないようだ)、それとも「気持ち悪いがそこがまたいい」とか「へんてこな珍獣で見ていて飽きない」である可能性だってあるが、要するに、そばにおいておくといい感じなので置いているのだ、という説である。この思い付きを、何人かの他の私と話すと、実は私もそう思っていた、という者が多い。もっとも、同じ私だから意見が一致するのは当たり前かもしれないが。

 それにしても、なんともいえない姿をしている「主人」(私が地球で見た中で一番「主人」に近いのは足の親指である)のほか、見かけるのが私だけだというのは、本当につらいことである。見かけるのはひたすら私、二十代前半の若い私から、年老いてよぼよぼになった私まで、特につらいのは後者の私を見かけることだが、「主人」はどうしてこう、画一的に私ばっかり生産するのだろう、と思う。望みとしては、もう少し多様性というか、私以外にも地球人を何人かさらってきてくれるとうれしい。できれば綺麗な女性がいい、などと、必ずしも美男子ではない私たちのことを棚にあげて私は思う。いつか「主人」が私にすっかり飽きて、下働きに使う人間の総取っ替えを決意したら、そのときは私以外の人間に会える日もやってくるはずだが、さっき出会った若いのがまだ製造されているところを見ると、それはまだずいぶん先の話に思える。もっとも、遠くまで旅をする手段を何も持たない私たちである。私たちの知らない遠くの「主人」たちは、何のことはない、別の人間を使っているかもしれないのだが。

「へっくし」
 と、私はくしゃみをひとつして、春だなあ、と思った。ここが地球にやけに似た環境であることは間違いない。大気に呼吸できる酸素があり、液体の水があるという最低レベルではなく、朝も夜もあるし、太陽は黄色いし、雨も降れば雪も降る。四季らしきものもある。その基準で言うと、今は春だった。誘拐されてから何年めなのか、寒い時期が終わり、いよいよ暖かくなるその取っかかり、入学式のシーズンである。そして、どういうわけかよくわからないが、毎年この季節になると、私はなんだか風邪を引くようだった。「主人」がここに地球のウィルスを持ち込まねばならない理由は不明だが、もしかして、誘拐された私と一緒についてきてしまったものかもしれない。そういえば、まだ地球で普通に暮らしていたころから、私は春休みになると風邪を引いていた。

 と、私は気がついた。近くの建物の窓から「主人」の一人が、じっとこっちを見ているのだ。私は洟をすすりながら、思い出して、ぞっとした。もしかして、毎年こうではなかったろうか。「主人」たちのテレビニュース(かなにか、それに相当するもの)で、春の訪れを告げる、人間前線みたいなものが報道されていたら、どうしようかと思ったのである。なんだか妙に、ありそうな話だった。


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