自分に最初の子供が生まれたとき、本来理解しているべきだったのに、本当はいまいち理解していなかったことに気づいたのだが、子供というのは人間であり、人間というのは生きている。いや、当たり前だ、当たり前なのだが、ちょっと前まで存在していなかったくせにと思うとギャップは大きい。とにかく、いったん存在をはじめると、人間なので、生かし続けるのにさまざまな手間が必要で、かつそれを怠るとけっこう、取り返しのつかないことになるのだ。つまり、はじめたらやめられないルールになっているわけで、これはまじめに考えるとけっこう怖い。
私はだいたい、昔からこういう、世界に借りを作るというか、締め切りに追われる状態が苦手だった。締め切りが怖いからといって、では締め切りの前にきちんと仕事を終わらせているか、たとえば夏休みの宿題は七月中に終わらせていたのか、と訊かれるとそれは別の問題なのだが、期日までに「絶対に」やらなければならない仕事があると、落ち着かなくなって、不機嫌になるのだ。この雑文も、更新間隔が一週間以上開くと、そわそわしはじめる。半月くらい更新できないと、いらいらしてビールもおいしくなくなる。
しかし、この手のものでやはり、子供をはじめ、生命に勝る借りはない。こんなサイトはもちろん、仕事上でもたいていのことは締め切りくらいなんとかなるものであり、最悪の場合でもすべてをなげうって田舎に引っ込んで農業でもやっていればかつかつ食べられる、ような気もする。しかし子供は違う。必ず定期的に手間がかかり、それを怠ってはとてつもないことになるのである。これは常に締め切りに追われる仕事をしているようなものだ。
子供ほどではないにしても、イキモノにはすべて似たような「取り返しのつかなさ」があって、どうして自分が昔犬とか猫とかを飼ってちゃんと生かしていられたのか、なおかつ自分自身も安穏と暮らしていられたのか、今から考えると不思議なことである。たぶん同居していた祖父母父母兄弟が集団的に面倒を見る態勢だったのでなんとかなっていたのだと思うが、自分一人では「家に定期的に散歩を要求する生き物がいる」という状態に、耐えられるとは思えないのだ。
一人暮らしを始めて以降は、案の定生き物には弱かった。一人暮らしである。生き物といっても、植物とかそういう類の生物なのだが、これが枯らす。水をやっているつもりなのに、でもって水さえあれば大丈夫生き抜く力を持っているはずの生き物なのに、勝手に枯れてゆくのである。あるとき「なんとかバンブー」という、名前を忘れたが竹っぽい植物を買ってきて、うっかり枯らしてしまってまた買ってきて、そのたびにタケオとかタケオ2号とかタケオ3号とかそういう芸のない名前をつけてかわいがるのだが、気がつくと新しいタケオもまた玄関で人知れず枯死しているのである。とてつもない。
この傾向は結婚しても変わらなかった。というより、二人になってまだしも生き物の面倒を見られるようになったはずなのに、似たもの同士で結婚しているので状況がまったく改善されないのである。いや、そんなことはない。妻は素晴らしい人だが生き物というのは容易ではないのだ。二人への試練は「カスピ海ヨーグルト」で、みんな忘れているかもしれないがこれは種菌をどこかからもらってきて、あとは牛乳を定期的に与えるだけで、ウツワの中でヨーグルト菌が繁殖して牛乳をヨーグルトに変換し続ける、いつまでもいつまでも変換し続けるという、そういう明治乳業商売あがったりな生き物である。
ところが、わかると思うが、これもダメなのだった。代を継いで継いでして大事に育てているつもりなのに、気がつくと腐ったりただの牛乳になってしまっていたりする。今ではすっかり諦めて、アルミの袋に入った乾燥してかりかりの顆粒みたいな種菌をそのたびに投入する方式(ケフィアヨーグルト)に乗り換えている。ほとんど生き物と言えない気がするが、そのせいかヨーグルトはちゃんとできるしお腹の調子もいいのである。
そういう夫婦は子供なんて作らないほうがよかったかもしれないが、ちゃんと子供はいて三人なんとか育っている。どうも、ある程度育つと後は勝手に育つようにできているので、予想外になんとかなるものらしい。なのでみんなもっと子供を作って将来の年金を支えていただきたいと思うのである。
さて、その子供とこのまえ山の中の神社に行ったら、そこの売店を経営している人のいいおじさんから、カブトムシをもらった。直感的に、これはいかん、こんな生き物はいかん、と私は思った。絶対に育てられない、私にこれを渡すなんてむざむざと殺すようなものだという、そういう自信があったからだが、しかし向こうは親切で言ってくれているわけで、そうむげに断るわけにもいかず、子供たちは子供たちで、自分たちだって手間がかかるくせに大喜びをしているのでそれも困るのだ。虫箱の中に腐葉土を入れて、その中にでっかいカブトムシの幼虫を三匹も、どかんどかんどかんと入れてくれた。カブトムシの幼虫。大迫力である。芋虫嫌いなのにカブトムシときたら、なんかもう別のレイヤーの生き物であって、もうどうにでもなれと思って玄関に置いている。
朝晩、その前を通るたびに私は「世界への借り」に深く沈んだ暗い気持ちになる。あの立派な生き物をきちんと育てなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうである。あの売店のおじさんは「放っておけば勝手にサナギになって勝手にカブトムシになる」と言っていたが本当だろうか。それを言えばタケオもカスピ海ヨーグルトもわりと放っといてもなんとかなる類の生き物なのではなかったか。怖いがどうしようもないので、そのままにしているのである。できれば、本当に、今からでも山の中に行って捨ててきて自然の理に任せたい。
そして、思うのだが、そういう心がけでは、目の前の仕事をやめて田舎にひっこんでも生きてゆけるはずがないんとちがうかなあと思うのである。だいたい、上の経験則をあてはめるならば、私が農業をやるとすべての作物が実を付ける前に枯れ果てるに違いないではないか。農業は奥が深いという、そういう話であろう。あと、こんな親だが、めげずに育て、子供たちよ。そしてカブトムシたちよ。