黙って立ち去れ

 商品やサービスに問題があった場合、日本人はそれを提供したメーカーや商店に文句を言うのではなく、黙って立ち去る傾向にある、と言われる。直接文句を言うのではなく、その場は我慢して、ただその店にはもう二度と行かない、ということで、だから店の責任者としては足元のサービスの質の低下になかなか気がつかないということでもある。

 これが日本人に特有な性質なのかどうかは別にして、私個人に関して言えば、いやこれが、あたっていると思うのだ。クレームをつけるというのは、それ自体疲れる、面倒なことで、我慢できるなら我慢して済ませたいと思う。確かに、自分の権利を守るのは大切なことだが、労力と返ってくるお金のバランスというものがあるではないか。たとえば「どうして電車が動いてないのか、いつ動くのか」みたいなのだと、訊かないと家に帰れないので面倒でも訊かないとしかたがないが、このラーメンどうも味がおかしい、とか、さっきのタクシー運転手無愛想で感じが悪かった、みたいなのは、文句を言っても、せいぜいラーメン代が返ってくるくらいのことで、そのために時間をとられて不快な思いもすると思うと、二の足を踏むのはそんなにおかしなことではないはずだ。

 それでも、やっぱり文句を言っといたらよかった、と後になって思うこともあって、一つには、不具合のおかげで迷惑がかかって、黙ったままでは気が済まない場合。魂の平穏のためというか、文句を言ってすっきりしたいだけというか、そういう心の狭小さでもって、どうしてもクレームをつけたい場合がある。もう一つは、これからも利用しないとしかたがないような場合である。たとえばJRとかマイクロソフトのソフトウェアをこれから一生使わない、というわけにはいかないので、こういう、黙って立ち去れない場合、やっぱり言うべきは言っておきたい。

 焼き肉である。ここ十年ほどでよかったことの一つとして、結婚して、食生活の多くの部分について他人に管理してもらえるようになった、というのがある。私は家事のうち「料理をする」という巨大な一分野について、これがもう、まるでやってないという自覚がある。家事の他の分野にくらべても、ほんとうにやってない。せいぜい一ヶ月に一回か二回、週末の晩ご飯を作ることがあるくらいである。しかしそれで幸いだ。仮に私がご飯の準備をすると、自分の好きなものばっかり食べることになると思うのだが、私の妻は「バランスを考えて献立を考える」という美質を持っているからである。これは本当によかった。そうでなかったら内臓脂肪に殺されていたと思う。

 しかし焼き肉は出ない。そうそう、それが書きたかったのだ。おそらくは食事のバランスを考えたその結果として、テーブルの真ん中にホットプレートを置いて、そこで肉やら野菜やらを焼いて、各自たれにつけて食べるという、このメニューが出ない。もともとぜいたくメニューだからこれが一週間に一回もあったらどう考えてもおかしなことだが、うちに関してはこれが「たまにあるメニュー」よりももうちょっと少なく、一年に一回あるかどうかの「イベント」に近い献立になっている気がするのだ。

 なにか非常にさみしいことを書いている気がするが、大丈夫そこそこ幸福にやっております。さて、あるとき。珍しく、この焼き肉であったと思っていただきたい。三年くらい前のことだろうか。鉄板が出てきて、焼き肉の準備が始まったのである。肉は、近くにあるスーパーで買ってきた「焼き肉用」と書いてある肉である。肉だー、肉だー、と喜んで、ビールも飲み、ああ私は今肉を食べている、いやそうじゃなかった今から食べるのだった、などと混乱しつつも内心小躍りしながら焼いた。焼いたのである。

 つまりこれが。どーん。たいへんなことになったのである。私はいまだかつてこんな肉を見たことがないが、もしかしてこれを当然とする国がどこかにあるのかもしれない。焼くと、肉が、粉々の、ばらばらになって、消滅してしまうのだ。いやこれが、そんな肉はないだろう、とみんな考えると思うのだが、そうだったのだ。焼く前は、いちおう、普通の肉に見えるのだが、鉄板の上に乗せて加熱したとたんに、小さないくつかのかたまりになって、焼ける頃には油の中にミンチ肉を焼いたのが浮いているという、そういう状態になる。どうも、脂身が多すぎるせいで、肉の大部分が焼くと液体になってしまい、食べる部分が残らないらしいのである。これをあえて食べようと思った場合、スプーンかなにかで鉄板の上をすくわなければならない。

 私は激怒しただろうか。激怒するべきだと思う。ただちに、この鉄板を外して、肉を買ったスーパーにとんでゆき、こんなんなるど、どないなっとんねんおまえとこの焼き肉はこれこ、これ食えるんこ、と言いにゆくべきだったと思う。しかし、事実を書けば、そうはしなかった。それよりも、我と我が身が悲しくて、自分がこんな肉しか食べられない境涯であることが情けなくて、どうにもつらい気持ちになって、そのままにしてしまったのである。ビールを飲んだのもいけなかった。焼き肉は、急遽冷蔵庫の中にあった「ソーセージを焼く」というメニューであったことにして、その場をしのいで、寝てしまった。

 それでも腹が立った証拠に残りの肉は捨てたので、それもあり、文句を言いに行くことはついになかったわけである。とすれば、次にできることと言えば、堪え難きを耐えて「黙って立ち去る」ことである。つまり、このスーパーでは二度と買い物をしない、ということであるが、実はこっちも難しいのだ。近所にあるこのスーパーは便利だし他で不快な思いをしたことはないし、利用できなくなると困るのは自分だからである。とすればどうすればいいのか。私にできることと言ったら、ここに書いて元をとった気になることくらいではないか。

 ところが、そうではなかった。気がついたのだ。私はそれで済むとして、妻がどうか、ということである。彼女は、ひそかに決意したのかもしれない。なにしろ、考えてみると、それからこちら、家で焼き肉をしたことが、ただの一度もないのである。

 要するにそうだ。妻は、こっちから立ち去ったのだった。つまり、焼き肉から、ということである。確かにこれは、抗議の一つの方法ではあると思うのだ。


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