新聞はやめたほうがよい

 物を燃やすと空気中の二酸化炭素が増加し、そのことにより地球温暖化がもたらされる。このことを考えた場合「紙の生産」はもしかしたら環境にプラスの影響(温暖化を防止する方向の影響)を与えるかもしれない。産業革命以前からあるほとんどの技術がそうだが、本やノートの材料となる紙は、一般に、石油からではなく生えている木を伐採して作られるものだからだ。

 木を切って紙を作る、というとずいぶん悪いことをしている気がする。しかし、考えてみればバイオ燃料とは要するにそういうものである。今生えている植物を使って何かを作ると、それはすべて、いわゆるカーボンニュートラル、空気中の二酸化炭素の増加には寄与しないものになるのだ。どうしてかというと植物は成長するにあたって二酸化炭素を吸収しているからである。せっかく作った紙を作った端から燃やしてしまったとしても、空気中の二酸化炭素は最初からその木が存在しなかったときと比べ、増えも減りもしない。むしろ、そうして作った紙のたとえ一部でも、図書館や個人の本棚等に永くたくわえられるのであれば、そのぶん空気中の二酸化炭素が減少したことになる。本百グラムごとに、空気中の二酸化炭素が約1.4キログラム減少する計算になる。文庫本一万冊なら約20トンだ。

 もちろんこの議論は、紙の生産や本の印刷、輸送などにエネルギーが使われていることを無視している。加えて、紙をつくるために伐採された森が砂漠化することなく再植樹されるというのが前提だ。ただ、一つ指摘しておきたいのは、森を自然のまま放置しても無限に二酸化炭素を吸収してくれるわけではないということで、これは、自然の植物も最終的に(自然に起きる)火災に遭い、あるいは寿命がきて朽ちて倒れて空気中に二酸化炭素を放出する存在になるからである。十分に育った木を伐採しそれを紙のかたちで火災から守り安全に蓄える(それと同時に新しい木が成長する余地を作る)ことは、地球温暖化防止に逆行するものではない。

 と、以上を考慮した上で、それでもなお、毎日家に届けられる新聞を見ると、いかにも無駄なことをしていると感じるのはどうしたことかと思う。新聞とチラシが、毎朝毎夕大量にポストに届けられる。そのことは、この環境に敏感になった社会で許されることかと思ってしまうのである。

「冷房は28℃でも仕事はできる」「離席時はモニタの電源オフ」「レジ袋をもらわずマイバッグを持参」と同様の、厳しい目で見るならば、確かに新聞には、削減すべき無駄がたくさんあるように思える。例として、ミニマムなことを言うようだが、雨の朝など、うちでは新聞を透明なビニール袋にくるんで配達してくれる。雨でもぬれていない新聞を読めるという、おそらくは配達を担当する販売所の心遣いのサービスなのだが、これについて、たとえばレジ袋削減に寄せるのと同等の関心を、抱くべきではないのだろうか。

 あらを探して新聞を見ると、確かに無駄は多い。まず新聞は、その隅からすみまでくまなく読まれるわけではない。面白く読んだとしても、よほど気になった記事以外は一度読めばそれでおしまいで、あとはごみになってしまう。根本的に、何度も読み返すものではなく、使い捨てのメディアである。1ページ削減すれば1ページ分だけ資源が節約できる、と考えると「読まないページを配達するな」という意見が、出てこないほうがおかしい。

 読まないページとは何か。まずは広告がそうだ。現状、紙面のざっと半分は広告で占められているのではないかと思う。自分に関係ない広告は読み飛ばされるのでなんとも思われていないのだろうが、テレビやウェブサイトが同じ状態だったらかなりうっとうしいと思う。加えて新聞と同時に配達されるチラシがある。この大部分が自分にはまったく関係のない情報、無駄であることは、ほとんどの方が同意するのではないだろうか。莫大な量の、しかも一度も読まれることがない貴重な紙資源が、電力を使って印刷され、トラックなどの燃料を消費して各戸に配られ、そのまま個人宅を通過してゆく。このような派手な資源の無駄遣いは他ではちょっと考えづらい。もちろん、新聞やチラシのかなりの部分は古紙回収に回され、再生紙のかたちで再利用されていると思われるが、こういうものはリサイクルしたらよいというものではない。再生紙は品質が落ちるし用途も限られてしまう。無駄なものは、使わないのが一番いいのである。

 などと考えてゆくと、究極的にはどうなるか。おそらくこれは「新聞は廃止すべきだ」と同じことを言っていることになるのではないかと思うのだ。資源や環境について真剣に追求し、その結果、紙のメディアに広告を出すことは環境にやさしくないとか、いまどきチラシを出すなんてまともな企業としてちょっとどうか、ということになった場合、新聞社の経営はどんどん苦しくなってゆき、ついには新聞というものが成り立たなくなるのではないかと思われる。それどころか、中間段階として、たとえば「パチンコ屋のチラシはいっさい不要」というような選択権を購読者に与えることさえ、宅配の新聞というシステムに深刻な問題を生じさせると私は想像するのだが、どうだろう。現状でもそんなに余裕をもった経営が行われているとは思えない。新聞社に対して真剣に「資源節約のために広告をやめなさい」と迫ることは、ついに新聞というものを消滅させる行為なのではないかと考えられるのである。

 厄介なことに、私は、掛け値なしに新聞を愛している。テレビやウェブから得られる情報よりもずっと頼りにしているだけではなく、新聞をめくるときの感覚や、紙面を一覧して興味ある記事を探す行為や、たくさんのチラシの中からお得な情報を探し出したときの興奮を、しゃれた見出しや、連載まんが、牽強付会なコラムや独りよがりな投稿、人生相談や週刊誌の広告、そして、地元の中学校の吹奏楽部の活動を報じた記事を、愛しているのだ。これがなくなって欲しくないと思う。ずっとこの仕組みが続いていって欲しいと思う。

 しかしそれはもしかしたら、我々がレジ袋を便利に思い、時速数百キロで幹線道路をかっ飛ばすスポーツカーに憧れ、食べたいだけ食べて飲みたいだけ飲み、夏の暑い時期にクーラーの利いた快適な部屋でごろごろしていたいと願うのと同じような、わがままなのかもしれないとも思うのだ。環境問題は、各人ができる、身近なところから取り組んでゆくべきである。その手始めに、新聞をやめてみる。などということにならないよう、願ってはいる。しかし、よくよく考えて、しかるべき手を打ち続けない限り、そういう未来が来ることは、避けることができない。そんなふうに思えるのである。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][▽前を読む