インターネットのことをグローバルブレインという言い方をした人がいて、うまいことを言うものだと思ってずっと覚えているのだが、最近思うのは、このグローバルブレインはけっこう、なんというか、ろくでもないことを考えているのではないかということである。むしろろくでもないことばっかり考えている、そんな気がする。
世の中にあるさまざまな物事について、それが「誰もそこまで深く考えない」ということで成立していることが、かつて多かった。自分の小学校中学校を思い出してみても、今考えると、あんなことがよく許されたものだと思うような行事とか先生の発言とかそういうものがあったのだが、こういうのはすべて、誰も深く考えなかったので、存在が許されていたと思うのだ。たとえば運動会。けっこう危険な種目があった。子供が子供の上にのぼったり蹴落としたりひっぺがしたりどつき廻したりすることによって成立している競技があったりしたのだが、ああいうのは今ないと思うのだ。よく考えたら危険だからである。
しかし、危険なのは競技ではなく、なんでも深く考えることかもしれない。実際、世の中のさまざまな物事は、ますますよく考えられている。一般に、考えることはいいことなのだが、深く考えた結果、運動会の種目は安全でつまんなくなり、公園の遊具は少なくなり、暴力を振るうような先生はいなくなるのだ。なんだ、いいことではないか。いいことなのだが、「怒って教室に飛び込んできた担任教師に耳を引っぱられてつれてゆかれた友達」というものを見られなくなったと思うとちょっとさびしい、ような気もする。そして、インターネットが何かを考えているとすれば、それはこのような「よく考えること」だと思うのだ。
そもそも、十分によく考えた場合、およそ世の中の何事も行うことができなくなる、というのは、証明可能な事実である。嘘だ私は十分よく考えた上で何でもやっていると主張する人がいたとすれば、それは本当は十分よく考えていないからである。本当に十分に深く考えた場合、布団から出られなくなる。食べられるものもなくなる。息を吸って、吐いて、ということだって、よく考えたら安穏とできることではないのである。
これは「食の安全」とかそういう話になるのだと思うが、べつに安全に関わることでなくてもよい。およそすべての物事が、深く考えるとできなくなるのだが、それは次のような自明な事実を使えば証明できる。いわく、
(1)思考には有限の時間がかかる。
(2)より深く考えた結果それまでの考えが変わる、ゼロでない確率が常に存在する。
(3)決断し行動してしまうとそれ以上、その決断についての事前思考は不可能になる。
どういうことか。まず、なんであれ人が行動をするとして、その行動に先立っては、その行動を起こすのだという決断というものがなされる。しかし、決断を下したということは、そこで、それ以上考えない、という決断を下したということでもあるのだ。すなわち上の(3)だが、思考が断ち切られるのである。ところが、ここでもし、決断を先延ばしし、さらに考えることにした場合、考えが変わる可能性は、たとえどれだけ深く考えたあとであれ、必ずあるのだ(2)。なぜかというと、この先どういう思いつきが、アイデアが浮かぶかは、思いつく前にはわからないからである。これはアイデアというものの定義からしてそういうものだ。そして、考えを続けたとすると、それには時間がかかって(1)、有限の時間内には決して終わらないのである。証明終わり。
これはなんとなく、チューリングマシンの停止問題に似ているが、ちょっと違うかもしれない。要するに、もっとよく考えたら考えが変わるかもしれないにも関わらず、その可能性を捨てて、あるところで決断をしてしまうわけである。これを「十分深く考えていない状態」であると言っても、問題はあるまい。と、以上から言えることは、次のようなことである。
人の行動は、どのようなものであれ、十分に深く考えた末のものではありえない。
つまり、十分深く考えることと、決断し行動することは、それ自体矛盾する事柄なのである。
ここで、逆に考えてみよう。現実にはさまざまに決断がなされ、行動されている。しかしながら、何か行動するということは、それが十分に深く考えられたものではないというのは、上で見た通りである。ということはだ。世の中の、およそすべての行動は「それほど深い考えなしに行われている行動」なのである。そんなことはない、よく考えられた行動だってある、とあなたは思うかもしれないが違う。あるのはただ、
(1)十分よく考えなかった結果、無残な失敗に終わった物事。
と、
(2)十分よく考えなかったが、たまたま成功に終わった物事。
の二つだけである。これは既に証明されているので、これ以上深く考えないでいただきたいが、要するに、人は朝、深く考えないで起き、顔を洗って、朝ごはんを食べ、着替えて鞄を持って家を出るのだ。そして、深く考えることなく一日の仕事をこなし、家に帰り、深い考えなしにビールを飲んだりとかするのだ。自分の胸に手を当ててよく考えていただきたい。そうではないだろうか。
それだけではない。このことは、どんなに重大な、ミスると命に関わるような物事でも、同じなのだ。どんなに深く考えられているようでも、現実に行われている限りその思考は十分ではない。すなわち、人は深く考えずに電車を運転し飛行機を操縦し、原発を制御している。我々が普段、深い考えなく使っている電化製品は深い考えのない技術によって支えられ、その深い考えのない技術は深い考えのない発表や論文で構成された深い考えのない科学によって支えられている。また我々は、病気になれば深い考えなく病院に行くわけだが、そこで深い考えのない診断を受けたあと、それほど深い考えはないまま一般には有効だとされている薬を、忙しくて疲れている医師によって深い考えなく処方され、そして我々は深い考えなくそれを飲むのだ。
と、なにか深遠な事実を指摘してしまったような気がするが、そういえば、世の中から交通事故や医療事故が根絶されないのは、一般に、関係者があまり深く考えていなかったからだろうと考えられるが、実にその通りであり、深い考えがあればそもそも家を出て自動車を運転したり病院に行ったりするはずがないのである。行ったとすればそれは十分深くは、考えていなかったのだろうと思われる。
思わず筆が滑ってしまい、何が言いたいのか、自分でも皆目わからなくなったが、最初のほうを読み直して書くと、ええと、インターネットを通じていろんな人がいっぱい考えることで、物事はますます深く考えられるようになってゆき、反面、行動は控えられるようになっていっていると思うのである。いいことのような気がして、実際にある程度いいことなので始末が悪い。とりあえず、放っておくだけでこのページの五字がどんどん治ってゆくのは蟻がたいことだなと思う野です。