不倶戴天ということ

 みんなそう思っているのかどうなのか、もしかしてあまり一般的な感想でなかったとしたら恥ずかしいのだが、ニュースを見ると、それがなんであれ「もし自分だったら」と考えてしまう癖がある。ノーベル賞受賞者の発表とか、サッカー日本代表として誰それが招集とか、そういうのに関して「もし大西さんですと言われたらどうしよう」と考えるのは、そういうのはまあ、勝手にやっておればいいんじゃありませんかとあなたは思うだろうし私もそう思う。プロ野球の試合を観ていて「代打大西と言われたら困るなあ」と妻に打ち明けると、すごく変な人を見る目で見られる。しかし、ここで言いたいのは、犯罪の加害者になったらどうしよう、という想像である。

 人は誰でも、たまたま犯罪の加害者になりうる可能性を秘めていると思う。まったく悪意も落ち度もない、ただの偶然によってもそうなることはあると思うが、わずかな悪意やわずかな不注意がたいへんな事態に繋がることもままある。触られたので振りほどいたら相手が電車のホームから転げ落ちてそこへ急行が通りかかる、というようなのだ。そういうことがあった、と報じられると、自分だったらどうしたらいいか、どうすればよかったのかと考えて頭を悩ませる。どうしようもないという結論になることも多い。

 もっと偶然の要素が少ないものだとどうか。人間関係というものは積み重ねのものであり、最終的に殺人事件に至る関係でさえ、そうであることは多い。一つひとつでは大したことのない、憤りやいらだちが、はけ口を見つけられないまま、長い間かけて少しずつ積み重ねられ、いつしかそれは殺意にまで高まってゆき、ついに犯罪に至るというような、そういう事件がある。私は思うのだ。自分だったらどうだろう、どこかで踏みとどまれるだろうか、と。私という人間はわりあい、何年経っても細々としたことを執念深く覚えているタイプなので、なおさらそう思う。

 実際には、殺人事件はめったには起こらない。日本中の、ほとんどの人間が、誰かしらに対しては割り切れない、相いれない気持ちを抱いていると思うし、ある場合には殺意一歩手前まで行くかもしれない。しかし、実際には殺さないで踏みとどまっているはずである。ただ、ほんとうにやってしまう人と、やらない人の差は、実はそんなに大きくないのではないか、最後のところで「当日雨だったので面倒になってやめた」というような偶然が生死を分けているわけではないか、とも思ったりする。

 さて、そういう私だが、今現在、確かに、ぶすっとやりたい奴はいるのだ。といっても、そんな物騒な話にはならないのであらかじめ安心していただきたいのだが、私の、ここ数年の人生に常に厄介な邪魔ものとして現れ、最も相いれないものを感じているものこそ、なぜかわが家のリビングに転がっている、直径八〇センチの赤いゴム製の球体。バランスボールなのである。

 バランスボールをご存知だろうか。なに知らない。それはいけない。今思いついたが、世の中には三種類の人間がいる。ひとつはバランスボールを知らない人間。ふたつめはバランスボールを知っている人間。そして最後の一つが、バランスボールが自宅にある人間である。考えてみれば、バランスボールを知らない人は最も幸せである。バランスボールが人生にまだ現れていないからだ。バランスボールを知っているが自宅にはないという人もまた幸せである。この人は少なくともバランスボールに人生を邪魔されてはいない。そして、最も不幸で、救われないのが、バランスボールを知っていてかつ自宅にある人である。

 書いていて思ったが、私がバランスボールの話題を書くことで、これを読んだ人を全員、最も幸せな第一カテゴリから第二カテゴリへとたたき落とすことになるのだが、まあ第一カテゴリと第二カテゴリの間に幸福度においてそんなに差はないので大丈夫である。むしろ、第二カテゴリには第一カテゴリに比べていいところがあって、パートナーにバランスボールをいきなり買ってこられたらどうするか、あらかじめ対策が立てられる。なあに、かえって免疫力がつくというやつであるので、どうか読んでいただきたいと思うのである。

 バランスボールは邪魔である。初めて会った時からそうではないかと思っていたが、本当に邪魔である。家にバランスボールがない人はこの気持ち、ちょっとわからないのではないかと思うが、家電製品などを店で見たときと、買って帰ってきて梱包を解いたときに比較して感じる気持ちを思い出せば、もしかしてある程度想像していただけるかもしれない。あれは妙なもので、持って帰ってきてわが家の蛍光灯の下で見ると、なぜだか非常にでっかく感じるものである。そうなのだバランスボールもまた、でっかいのである。

 ましてバランスボールは転がる。ころころころころ、どこへでも転がってゆく。そのせいか、ふと見れば、家人の誰もこれでトレーニングなり遊んでいるところを見ないのに、驚くべきことにかならず、最もここにあっては困るというところに転がっているのである。いわく、階段の上がり口、洗濯物をかかえたウッドデッキへの出口、寒いので意を決してようやく向かったトイレの入口。掃除機をかけているときがもっともひどい。掃除機をがあがあとかけていて、前にバランスボールがある確率は150%であるが、これはバランスボールが掃除機のノズルの前に現れる確率が100%でどけたはずなのにもう一度現れる確率が50%の意味である。

 などと他人の言葉で不満を語っている場合ではなかった。こういう場合確率は足したらいかん。さてそういえばバランスボールはトレーニング用具なのだが、なるほど、言われてみれば、家庭用のトレーニング用具というものに関して、買ったもののすぐ飽きて使わなくなった、というものがいかに多いことか。これは先人の言葉にも明らかなところであった。いわく、ぶら下がり健康器。いわく、ルームランナー。いわく、エアロバイク。いわく、あとは名前を知らないが、踏み台昇降運動をするやつとか、乗馬のやつとか、いろいろある。たぶんウィーフィットもきっとそうだ。あんまり邪魔ではなさそうだが。

 そして、こういうものの中では一番邪魔なのはバランスボールではないかと思うのだ。まずもってあいつは転がる。転がって邪魔になる。邪魔だから片づけようと棚の上に置いてもどこに置いても、いつの間にかなぜか戻ってきて私の生活を邪魔する。ぶら下がり健康器と違うところは「他の用途がない」ということで、こいつは物干しの代わりにもならない。エアロバイクと違うところは「片づけても出てくる」ということで、使わない部屋に置いて奴のことを忘れるということができないのである。意思を持つものであるがごとく、気がついたら出てくる。どこからかやってきて、私の進路を邪魔するのだ。

 私が、なぜこんなことに憤っているのか、わからない人にはわからないと思う。邪魔なボールがある。片づけたらいいではないか。邪魔だと言っても、たいしたことはあるまいよと。そうなのである。一回いっかいは大したことないのだ。さほどのことではない。ひょいとつまみあげて、脇にどかせば、それでおしまいである。ただ、このときに、一回いっかいはわずかながら、ぴりっとした怒りを心のどこかに私は覚える。そして、それは消えることがない。最近では、怒りが溜まりにたまった揚げ句、邪魔になるたびに「ももんがーっ」に似た奇声を心の中であげている。実際に叫んでないだけまだマシだが、そうなるまでそんなにたくさんは余裕がないぞ、という感じがひしひしとしている。

 思うに、これはやはり「いいところが見つけられない」というところに一つの原因がある。なにしろ、こいつとは長いこと一緒に暮らしているにも関わらず、特になにかをしてもらったことが一度もないのである。「バランスボールがあってよかったなあ」と思ったことなどないのだから、怒りが消えるはずがない。どんな奴にだってなにかしら意外といいところがあるもので、それを見つければ今までの怒りがすべて愛に変わる、ということもないではないだろうが、雨の日にバランスボールが捨て犬を抱っこしているところを見かけることはこれからもたぶんない。おまえも独りぼっちなんだろ。

 そういうわけで、わずかな怒りの、その積み重ねがいつか殺意に変わり、ある夜ぷすっといかないがために、これを書いて怒りを発散しようと思った次第である。ここに書くと、怒りも収まるし雑文の更新もできるので実によい。ああよかった。大西科学があってよかったなあ。意外にいいやつだなあ。

 ところで、今思い出したが、上の怒りをこのバランスボールの購入者であるところの妻に打ち明けたところ、こう言われた。
「じゃあ捨てていいよ」
 ももんがーっ。お前のもんやんけおまえが捨てんかいっ。なんでわしがそんなことせなあかんねん。


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