パラドックスは笑う

 パラドックス、逆説という言葉を聞くと、通常我々は、ゼノンのパラドックスとか、タイムパラドックスとか、特殊相対論における双子のパラドックスのようなものを想像する。いや「我々は」などとここで軽々しく言ってはいけないのかもしれないが、少なくとも私が捉えるところのパラドックスというものは断然この手のものである。つまり、ある証明ないし思考実験の、論理展開を見ていくとどこをとってもおかしいくないのに、結果として導かれる結論は明らかに不合理で、ではどこかに間違ったところがあるわけだがそれがどこかはなかなかわからない、というようなものだ。

 私はパラドックスという語に対して長年そういう認識でいたので、たとえば「フレンチパラドックス」のような語に出くわしたときは、なんともいえない違和感を抱いたりしていた。これは「フランス人は脂っこいフランス料理を食べているのに統計的に心臓病が少ない。なぜだろうね」という話であるが、どうも、これが逆説だとは思えないのだ。まあ「逆説的だね」くらいは言ってもいいと思うが、上の意味での逆説とはかなり隔たりがあるように思う。

 ただ、今回これを書くにあたり、おかしいと思って辞書を引いたところ、逆説という言葉は、実はかなり広い意味で使ってもよいらしい。私のパラドックスは、狭い意味のほうのパラドックスらしいのである。「通常の把握に反する形で、事の真相を表そうとする言説」などと書いてある(大辞林の解説)。ことわざで言うと「名物にうまいものなし」とか「急がば回れ」あたりがこのカテゴリに属していて、これをたとえば「回り道のパラドックス」と呼んだりするとなんだかひどく妙な感じが、私はするが、しかし定義に照らせば断然言ってもよいということなのではないか。

 さて、算数や数学の教科書において、逆説で物事を説明するということがときどきある。これは上の、狭い意味での逆説かというとちょっと難しいが、たとえば「分数の足し算のとき、分母は分母同士、分子は分子同士足したらどんな変なことになるか」をまず示して、正しい計算の方法を教えるものである。効果的かどうかは場合により教え方による。本当の初学者にとっては問題をややこしくするだけではないかと思うことがあるが、一度理解したあとに戻ってくると、確かに理解する上での補強になっていたようにも思う。

 そういう逆説的な説明の一つに「速度は平均してはいけない」というものがあった。教科書かなにかで読んでから、まだ覚えているのだから、この説明のしかたが、わりあい効果的だった例ということになるのだと思う。こういうものである。ある道のりを、自動車で往復する。行きは時速40キロ(キロメートル、以下同じ)で走り、帰りは時速60キロで走った。平均すると時速何キロで走ったことになるか。

 時速50キロと即答するほど我々はうぶではない。しかし、そうしてはいけない理由はにわかには説明できない、かもしれない。もちろん計算すればすぐわかる。たとえば道のりが120キロメートルだったとすると、行きは3時間、帰りは2時間かかったことになるので、しめて240キロを合計5時間。すなわち時速48キロが平均速度である。問題文中には道のりは書かれていないが、文字式を立ててむにゃむにゃするなどすれば、これは道のりの多寡によらず時速48キロになるということも、少し気の利いた小学生ならわかる。

 ここまででも「回り道のパラドックス」程度には逆説だと思うが、話は実はこれからである。ここで、この問題をちょっと変形する。「行きは時速Xキロで走った。平均時速をYキロとしたいとき、帰りは時速何キロで走ればよいか」という形にするわけだが、そうするとこれが、さらにもう一段、逆説の階段を上るのではないかと思うのである。というのも、この、一見なんの変哲もない問題が、ある条件下では「解なし」という、小学校の算数ではあまり出会わない答えを返すようになるからだ。

 実現したい行き帰りの平均速度を時速60キロとしよう。行って帰って、その平均が時速60キロになるようにしたい。ところが行きの行程が、ちょっと渋滞していたなどの理由で、平均時速40キロにしかならなかった。このとき、折り返し地点で考えるわけである。帰りは時速何キロで走ればよいだろうか。このときの答えを計算すると、もちろん時速80キロでは駄目である。時速120キロで帰る必要があるというのが答えだ。

 ここまでのところもまだよい。いや、日本の道路で時速120キロも出してはいけないが、計算上はよい。ところがここで、問題の条件を少し変える。「行きの平均速度が時速30キロだった」とするのである。すると、どうしたことか、ここで突如として、答えが出なくなったことに気がつく。この問題を解く上でどういう計算を行うかは好みにより場合によるだろうが、たとえばある文字式を立てて計算すると、1/x=0という結果が得られたりする。「xに当てはまる解はない」という状態である。気の利いていない小学生はここで立ち往生してしまう。

 ただこれは、多くのパラドックスがそうであるように、別の方向から問題を眺めてみれば、そんなにおかしな話ではない。道のりが120キロとして、その行き帰りを平均時速60キロで走りたいというのは、要するに行き帰りの所要時間の合計を4時間で済ませたいということである。ここで、行きの行程を時速30キロで走ったとすると、120キロを走るために、すでに4時間かかってしまっている。もう帰りの道のりに使える時間は残っていないので、目標は達成不可能になっているのである。

 ここまで考えると、小学生の私はいつもぞっとしていた。算数に「とりかえしがつきません」と言われるのは、初めてだったからだ。確かに世の中には、どんなに頑張っても挽回できないことというものは、あると教わってはいた。しかし、それは実は道徳的に駄目であったり、社会的に駄目であったり、経済的に駄目であったり、体力的に駄目ということであり、本当に頑張っていないから、あるいはそんなことは恥ずかしくてできないから、事実上挽回が不可能、ということが多かったのだ。しかし、ここで私は気がついた。あるのだ。確かにある。いったんどこかで4時間を空費したら、もう平均して時速60キロで走ることは、数学的に、物理的に、金輪際不可能である、などということは、あるのだ。

 だから我々の人生においてはせめてこうこうこういうふうに心がけて生きようではないか、などという教訓になるわけでは、ないので、そのへんは安心していただきたいが、今でもときどき、考えることはある。「これはもしかして、挽回不可能な物事ではないか」ということをである。たとえば、地球温暖化防止の文脈で語られる二酸化炭素排出量削減の問題など、問題の手触りが、かなりこの「平均速度」の問題に近いと思っているのだが、どうだろう。考えてみると、年間あたりで空気中に工業的に排出される二酸化炭素量などというものは、気候に影響するらしい大気中の二酸化炭素の絶対量に対しては速度のような意味を持つパラメータである。京都議定書やその後の国際的な話し合いによって、二酸化炭素排出量をゼロにしよう、あるいはマイナスにしようという話をしているのではない。増えてしまった排出量をある程度削減して維持しましょうという話になっている。

 そこで思うわけである。我々はこの問題において、もしかして既に4時間を空費してしまっているのではないだろうか。そうでなければよいのだが。


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