手を伸ばしてくるもの

 去年に「アイポッドタッチを買ったよ」というただそれだけの、自慢たらしい文章を書いた私であるが、実はその後、特に落としもせず機嫌よく使っている。使っているだけではなくけっこう気にいって使っているので、ここに書くことがまったくなく、もしかしてこれはこれで、たいへん損をしたのではないかと逆に思い始めているのだが、どうなのだろう。考えてみれば人生、多少のお金がどうこうではないのだ。「モノより思い出」ということわざもある。どれだけ笑って過ごせたかではないだろうか。むしろ私としたことが、アイポッドを買うなど何を考えていたのか。最近のアップルのことだからソツなく作ってくるに決まっているではないか。売れ。アイポッドなんかすぐ売るのだ。そして代わりにどこかアジアの街角で怪しげなポータブルプレーヤを買うのだ。そうではないか、なあ諸君。

 いやそんな話ではなかった。このアイポッドだが、どうも自分のことを電話かなにかだと思っているフシがあり、無線LANに繋がる機能があって、家にいる限りにおいてはメールを読んだり、天気予報を見たりできる。無線LANというのは電話ではないので、自分の家以外ではまあ、あんまり意味のないものである。しかし、自分のことを電話かなにかだと思っている証拠に、これを外で使うと、近くの無線LANの基地局をリストにして「どこに繋ぐか選択せよ」と迫ってくる。どこに繋ぐと訊かれたってお前、それどれもウチのと違うのである。繋いだら警察に捕まる。いや、捕まらないかもしれないが、そのへんのドアをあけて怖いお兄さんが出てきたりしたら困るではないか。そしてそのお兄さんは、家の塀に「無断接続一万円」と書いてある張り紙を指差すのである。

 と思って普通は、いつ「どこにつなぎやす親分」と訊かれても単に「キャンセルだ若造」を押すだけなのだが、そうやって住宅街を歩いていると、無線LANの電波というものはけっこう、普遍的にどこでも飛んでいることがわかって驚く。無線LANというのは、自分で使っておいてなんだが、けっこうマニアックで家の隅だともう届かなくなるような、言ってはなんだがええかげんなアイテムなんじゃないかなー、と思っていたのだが、いやそんなことはない。けっこう一般的でかつ遠くまで届くものらしい。住宅街の真ん中で見てみると、五つ六つの基地局(とは言わない気がするが)がすぐ見つかる。普及度で言うとどのくらいだろう。洗濯機よりは少ないだろうが、カーナビよりは多そうである。

 そういうことをしていて思ったのだが、このアイポッドは、街の無線LAN基地局を探すのに非常にぴったりの装置である。こういうのを「ウォードライブ」というのではないかと思ったが、アイポッドをスリープにせず「接続先を選択」の画面にして歩いていると、ごろごろと無線LANのスポットが見つかる。しかも、歩くとそれに応じて近くのスポットが入れ替わり立ち替わり表示されるのである。もちろん同じことは普通のノートパソコンでもできるわけだが、開いたノートパソコンを見ながら歩いている人はあんまりいない。いや、見たことは実はある。昔四谷あたりで、絵を描くための画板のような装置にノートパソコンを乗せて、歩きながらぱちぱちキーボードを叩いていた人を確かに見た。しかしまあ、その後見なくなったので、たぶんあれはたいへん前衛的な光景だったのだと思われる。今でも前衛的だ。それに比べてアイポッドは、少なくとも怪しく思われることはなさそうに思える。

 そうして歩いていると「繋ぎませんか」「こちらへどうぞ」といろいろな家の基地局が私を誘っている気がしてくる。実際には、ほとんどすべての基地局はちゃんと暗号化されていて、私が繋ごうと思ってもつなげるものではないのだが、それでもほんのたまに、暗号化されていないものも、確かにあるのだ。家のドアの鍵が開けっぱなしになっているようなもので、いいのかなあと思うが、まあ、普通の人はそうやって開いているドアを試してみたりはしないので、そういう意味においてセキュリティは保たれているのだろう。田舎のお家が鍵なんてかけないのと同じである。

 しかし、名前はわかる。接続自体がパスワードで保護されていたとしても、無線LANというものはそれぞれ名前がついていて、その名前は(これも確か設定次第だったと思うが)、部外者には見えるのである。考えてみると、ここでどういう名前をつけるかについて、人はもっと自覚的になったほうがよい。無線LANの名前などどうでもよいと思っているかもしれないが、表札と同じくらいには他人に見られている、かもしれないのだ。

 面白いので今日一日、見ながら歩いてみたが、だいたいは「default」とか「mywirelesslan」「YBBUser」といったような、そのまんまな名前である。これは、無線LANの装置を買ってきてそのまま使っているのであって、おそらくパスワードもデフォルトだったりしてたいへんよくない状態ではないかと思うが、メーカーのほうももうちょっと考えて芸のある名前にしてあげればよいのにと思う。ただ、乱数っぽい数字と文字の羅列、というのが比率としては一番多いので「もうちょっと考えて芸のある名前に」しようと思った結果は乱数っぽい名前であるのかもしれず、それに比べればまだdefaultのほうが見ていて面白い、かもしれない。特に「YBB」というのは、ヤフーの巧妙な宣伝であり、実は近隣住民や通りすがりのウォードライバーに自分のところのプロバイダの宣伝をしているのではないかと思う。そうではないかもしれないが、とにかく多い。

 などなど、あまり面白いのはないが、ただ、オフィス街的なところで「Yoko」というのを見かけた。鈴木陽子さんなり佐藤洋子さんが作っているのかもしれないが、私は思う。これはきっと、むくつけき男が自分の無線LANスポットにヨウコという名前をつけて可愛がっているのである。ちなみにキーボードはエミでマウスはルミという名前なのである。なんだか一世代前の名前だという気がするがなんとなくそういうことをするのは三十歳以上な気がするのでそれでいいのだ。内田洋行みたいな名前の会社だという可能性も高いと思いついたが、上のイメージがすてきなのでそっとしておかれたい。

 そうやっていて思った。これは、本当にそのどれもが、無線LANの入り口なのだろうか。そうではないのではないか。たとえば、このうち一つは、一見無線LANの基地局のように見えるが、実はこの世界に紛れ込んだ「魔」が運営するところの、無線LANに似せた別の、魔法的な何かである。いちど繋ぐと、その先に広がっているのは、インターネットではない何かであり、ブラウザにwww.googole.comと入力してもグーグルではない何かにつながる。ダウンロードされるのは新着メールではない何かであり、パスワードを入力してもMixiiに似た何かに入ることはできない。それだけではなく、画面の隅にいつのまにか小さくて黒い悪魔が顔をのぞかせており、それは目を離すたびにこちらに近づいてきて、そのひねこびた目で画面の中からあなたの顔を覗き込む。そしてあるとき突然に画面から細いかぎ爪のついた手を伸ばしたと思ったら、あなたをそのワイヤレスデバイスの中、インターネットではない何かの中に引きずり込むのだ。

 などと思ったのは、私が覗いていた無線LANの基地局のリストの中に、こういうのがあったからである。
「free internat」
 暗号化されていなかった。実に、悪魔的ではないだろうか。


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