少し前、と思って調べてみるともう一年以上前なので驚いたが、「ITmedia」の記事に「レジで小銭をスムーズに支払う方法」という記事があって、面白かった。コンビニやスーパーで買い物をすると、商品の値段に一円単位の端数がついているので、一般には、代金の合計にも一円単位で端数が出る。それを払うために、値段を聞いてから小銭を出しているとたいへんもたもたして嫌なので、なんとかする方法はないかという、ざっとそういう話である。ITmediaにはこの手の生活マメ知識的な記事がときどき載るが、アイティーとは特に関係ないこういう記事が、全体の中でどういう位置づけになっているのかはいまいちよくわからない。とはいうものの、私個人に関して言えば、こういう「ちょっと考えて世界を改良する」という行為は、たいへん好きである。愛しているとも言える。なんなら結婚を考えてもいい。
そもそもこういう、まあどうでもよいことを「考えようと思った」「考えて記事にした」という事実に、なんだかとても嬉しくなってしまうし、評価としてはもうそれだけでいいのではないかと思う。記事として百パーセントでなくても読んだ人がなにかを考えるきっかけになればよい、というようなものではないか。その上で書くのだが、この記事の結論は、実はあまりいただけない。レジに並ぶ前に、あるいは並んでいる間に、手のひらに七七円(一円玉十円玉各2枚、五円玉五十円玉各1枚)を握っておく、ということになっていたのだが、残念ながら、これはあまり役に立たないのである。
詳しくは、この文章の最後にあげたリンク先を参照していただきたいが、清算した合計金額の端数が〇円から九九円のどれになっても対応できるよう、財布の中に常に大量の小銭があるという仮定がまず一般的ではない。支払い額も日によってばらばらだが、その一方で、財布の中身も時によってばらばらだから困るのではないかと思うのだ。また、硬貨一枚を財布から取り出す手間と一枚をしまう手間が同等であると考えているのも、雑な仮定と言える。取り出すよりもしまうほうが明らかに手間がいらない感じがする。もう一つ言えば、硬貨を財布から取り出さなければ店員さんにお金を渡せないが、しまうほうはお金を払ったあとでもできるので、レジ前にいる時間を最小化するという目的から言うと、考えるのは取り出す手間だけでいいように思う。
ではどうすればいいのか。手持ちの一円玉と五円玉をとりあえず全部手のひらに出しておいて、端数は(可能であれば)それで払う、十円から上の単位はもうあきらめる、というのが一つ思いついた方法である。たとえば、買った金額が二五七円で、手のひらに三円あったら、財布の中から三百円出し、二円をそれに足す(おつりは四五円)。あまりうまい方法ではないが、現実的ではある。小銭を全部手のひらに出すと、必要なコインをより分ける手間が余計にかかるので、このほうがよい、という考えである。
しかし、これについて思うのだが、我々のうち、私を含めたある人々は、どうも「自分は暗算ができない」と思い込んではいないだろうか。というより、自分がつらい目にあって暗算するよりも、もっと早く、簡単に計算する方法がある以上、自分の暗算には価値がないと思ってはいないか、と思うのだが、どうだろうか。確かに、あとでレジという賢い機械が計算してくれるのだから、自分が計算する必要なんてないではないかと思うのは、どちらかといえば正しいことだ。専門の踏み台がちゃんとあるのに、高いところの物を取るために椅子(キャスターつき)に登るのは、あんまりやってはいかんことである。
確かに世の中にはいろんな人がいて、特に「そろばん」に関してあるレベル以上熟練した人は、これくらいの計算は楽々とやってのける。つまり、自分が買うつもりでかごに入れた商品の代金、一二六円とか七八円とか二九二円とかを、すべて足しておいて、レジに並んだときには既に手の中に代金がある、という状態である。そういう人は、そんなにたくさんはいないと思われるが、確かにいるということはみんな知っていて、それだからこそ、かえって、自分はできないと思い、やる気も出ないのかもしれないと思う。
特に、消費税。この導入がいけなかったと私は思う。特に導入当初、外税方式というか、合計金額にがつんと3%を掛けてそれが合計金額、という状態で、それが長く続いたこと、これが著しく計算の習慣を奪ったと思う。3%を計算するというのはかなり面倒なことで、ほとんどの人は「今自分が買っているものが正確には合計何円か」という計算する習慣を、放棄してしまったと思うのだ。これはたいへんよくないことだ。国民の計算力の低下について政府は責任を負う立場にあるのではないかと思うのだが、どうなのか。
政府の追及ともかく、ところが、以上のような状況にもかかわらず、さして計算が得意ではない私にもあなたにも使える、方法があるのだ。最近思いついて、実践しているのだが、つまり買うものの「1の桁」だけを暗算するというものだが、これはどうだろうか。
幸い、いまや値札は内税方式になっていて、買ったものの値段は、一円まできっちりと書いてある。それを精密に合算してゆくのは確かに難しいとしても、値段の一の位だけ足してゆくのは、そこまで難しいことではなく、慣れればむしろ簡単である。こんなふうだ。
一二六円のものを買った。→六を覚えておく。
七八円のものを買った。→六と八を足して、一円の位四だけを覚えておく。
二九二円のものを買った。→四と二を足して、六を覚えておく。
七八円のものをやっぱりやめた。→六から八は引けないので一六から八を引いて八を覚えておく。
そしてレジに向かい、並んでいる間に八円を用意しておくのである。財布の中に八円がなければ三円。それも無理ならあきらめてつり銭をもらう。
この方法のいいところは、買い物の合計額の、これが「チェックサム」になるということである。プロのレジ打ち職人といえども無謬ではない。ましてコンビニではレジを打つのはたいていアルバイトさんなので、ときには間違うこともあるだろう。間違わないためのチェックに、普通レジでは「三点のお買い上げで」などと品物を数え上げてくれるが、それは計算が間違っていないことをなんら保証していない。そこで一円の位の計算だ。自分の計算とレジの計算で、端数が一致していなければ、なにかおかしいことに気づき、指摘することができるのである。最低限、レシートをもう一度チェックして、値引きがちゃんとされていなかった等の間違いには、気づけるはずだ。
なにか、生活マメ知識としてはすごいことを指摘してしまったような気もするが、いつものように問題はある。それは、そこそこ面倒なこの作業を、どうせするのであれば、一の位ではなく「百の位」でやったほうがずっといい、ということである。
一二六円のものを買った。→百円と覚えておく。
七八円のものを買った。→約百円なので足して二百円。
二九二円のものを買った。→約三百円なので足して五百円。
七八円のものをやっぱりやめた。→約百円を引いて四百円。
と、こういうことだが、確かに、このほうがずっと建設的である。手元で暗算して、それがなんらかの意味でのレジのダブルチェックとして機能するという点では上と同じだが、百円単位で一致していれば、損得という点で大外れはしないからだ。もう少し書くと、これは、
・一円の単位が一致していたのでなんの疑問も持たずにお金を払ったが、実は計算が百円間違っていた。
・百円の単位が一致していたのでなんの疑問も持たずにお金を払ったが、実は計算が三一円間違っていた。
のどっちがよいか、ということである。欠点としては「レジ前で小銭をあらかじめ準備する」という本来の目的において、百円単位の計算が何の意味も持たないということだが、まず、瑕瑾と言えよう。って、なんだ、最初の目的はいったいどこに行ったのか。「ちょっと考えて世界を改良する」んじゃなかったのかおまえ。んが、ええと、まあその、そういうことは、なんだ、よくあることじゃないか。なあみんな。