変わってゆく私

 ここしばらく、更新ペースが落ちてきたという認識は自分でもあるのだが、春分が過ぎたばかりというこの時期になって「去年の夏至」の話をするというのは、いくらなんでもどうかしているという気が自分でもする。「春来たりなば夏遠からじ」と書いてはみても、一つ季節をずらしただけでこうも見事に含蓄がなくなるかと愕然とするばかりである。なんとなく、こうしたことを一つひとつ「まあこれもありです」と許容してゆくことで、この場所はゆっくりと取り返しのつかない歩みを進めてゆくのではないかと思うのだ。どこへかというと「時事風俗から遊離したふわふわサイト」へである。もとからそうではないかと思う方は実は多いのではないかと恐怖しつつ、とにかく今これから夏至の話である。まあなんだ、この文章も、三ヶ月くらい経って読み返せばどうせなにがなんだかわからなくなるので大丈夫である。

 みんなどこかで出会っているのではないかと思うが、近年、夏至近辺になると「キャンドルナイト」という、ロウソクに関連したイベントがある。つまり「電灯を消してロウソクの明かりで生活をしてみよう」という運動だが、なにも「これからずーっと電灯なしでいよう」「電灯はもうやめようこれからはロウソク」といった話ではなく、せめて夏至の一日だけやってみようや、という提案であり、直接的なエネルギー節約(あるいは二酸化炭素排出量削減)よりは「イベントを通じて地球温暖化について考えよう」という意図のものだと思われる。ロウソクだって二酸化炭素を放出しないかといえばするし、間違って家が燃えたら二酸化炭素どころの話ではない。あまりそういうことを事々しくは言わないで、意識の方向付けの問題なのだろう。こういうのに参加することで、人々の日常の意識がすこし、省エネ方向に変わるかもしれない。そのためにはハチマキでもいいし頑張るぞ三唱でもいいのだが歴史の偶然によりたまたまロウソクなのだと思われる。

 私は本質的におっちょこちょいな人間なので、ここ数年、夏至になるとわざわざロウソクを引っ張り出してきて、その明かりでノートパソコンをかちゃかちゃとやっていたりする。それは本質的におっちょこちょいな行動だしノートパソコンにはバックライトというものがあるので物理的にもロウソクに意味がないと思われるが、まあ、こういうことを実体験として行うことでいよいよ温暖化はなんとかしないといかん、という感じがしてきたことは確かで、だとしたらこれはこれでいいのかもしれない。言葉は悪いが、どうせ、気分の問題である。

 そんなキャンドルナイトだが、ここからが去年の夏至話となる。このロウソク運動に関して、私の住んでいる街の、最寄の駅でもなにかイベントがあったらしく、夏至近くに街でロウソク入りの袋を配っていた。同時に配っていたパンフレットでは、温暖化はなんとかしない喫緊の課題であること、それには市民一人一人の意識が変わらないといけないこと、そのために若者が集まってイベントをやるのであるということが書いてあった。しつこいが私は本質的におっちょこちょいな人間で、また私の今住んでいるような地方都市でこういう活動を立ち上げるというのは冗談抜きで偉いと思うので、ぜひ私も見に行って少しでもイベントを盛り上げる助けになりたい、一本の枯れ木として山の賑わいに貢献したい、と思ったのだが、考えてみれば私はこの街出身の若者ではない。特に若者ではない。それに駅までこのためにわざわざ行くと、その使ったガソリンでまた少し地球が温暖化するのもいけない。そう思ってでかけるのを必死でこらえた。

 という、上はなんだか「そうですか」という話だが、ここで少し気になって、なんとなく覚えていることがある。渡されたパンフレットの冒頭に、地球温暖化は他人事ではなく、自分の身近な問題として捉えるべきである、ということを訴える上で、こんなことが書いてあったのだ。

「地球温暖化は、政治家や偉い科学者が解決してくれる問題ではありません。私たち一人ひとりが変わらなければ何も変わらないのです」

 こんな感じだったと思う。「と思う」というのはいまやそのパンフレットをなくしてしまって手元にないからだが、だから文面正確ではないことをお断りして、では私はこれを馬鹿にしたいのだろうか。そうではないのだ。まったくそうではないのだが、にもかかわらず思う。地球温暖化は、もしかしたら本質的には政治家や偉い科学者が、とりわけ偉い科学者がなんとかする類の問題ではないだろうか。

 ある問題があったとして、それを解決するために、いろいろな方法があるだろう。あるいは、いろいろな人が、自分なりの方法で解決に向けて努力をする。その努力のしかたというものが、解決に向けてレベルの異なる3つの利きかたをするということを、まず指摘したいのである。普通、その力は解決に対して加算的な、いわば「足し算要素」として用いられる。これは、人ひとりの力が、結果に対してそのぶんプラスされる類の利きかたである。たとえば「募金する」がそれに当たる。百円募金すれば、それは百円分、事業を前に進めるだろう。他の例では「重いものを一緒に担ぐ」とか「草むしりを手伝う」とか「温暖化防止のために自宅のエアコンを消す」などがある。これらは、すべて足し算要素である。

 しかし他の方法もある。これを「掛け算要素」と名づけよう。掛け算要素は、ある人の努力が結果に対して倍数の形で利いてくるような力の使い方である。たとえば「募金を手伝う」というのは、掛け算要素だと言える。駅前に立ち、他の多くの人に募金の必要性を訴えることは、募金全体に対して、なにか、その最終的な募金額にある倍数をかけるかたちで寄与する。たとえば、五人が五箇所で訴えかけるのに比べて、六人が六箇所で訴えれば、単純には募金額は二割増えることだろう。自分が百円募金したらそれはただそれだけのことだが、募金を訴えかければ、百人に百円ずつ募金してもらえるかもしれない。荷物運びや草むしりを、多くの人に呼びかけて手伝ってくれる人を見つける、というような行動もこれにあたる。

 上を見ると、同じ一人の行動として、掛け算要素のほうが大切に思える。一人の力は弱いものだが、みんなを集めることに成功すればそれは大きな力として働くからだ。だいたい、政府あるいは政治というのはもともとそういうものであって、みんなからお金を集めて「出し合ったお金で橋を掛けましょうよ」とか「歳をとった人の生活を支えましょうよ」ということをシステムとしてやるものである。道路特定財源とか国民年金のことだが、確かにこういうものが機能していることを思うと、掛け算の力というものは現実にある。ゼロに何を掛けてもゼロなのでみんなが「募金を集める側」になってもいけない話だが、まあ、普通はみんな忙しいのでこちらの手伝い方をする人は少なく、うまくできているものである。上の例では、ややこしいが「一人ひとりが変わることが大切」というのは足し算要素で「一人ひとりが変わることが大切ですよね」とみんなに呼びかけたりロウソクを配ることは掛け算要素である。

 ところが、問題の解決法はこれだけではない。3つ目を「数式変更要素」と名づけたいのだが、問題に対して一歩引いた点から、問題のルールを変えてしまう工夫というものが確かにあると思うのだ。たとえば重いものを一緒に担ぐかわりに、台車を借りてがらがらと押してくるというのは、ドラスティックに問題を解決する。五人でやっている草むしりを一人が手伝えば約八割の時間で作業が終わると考えられるが、その一人が草刈機を持ってくれば、もっと楽に、早く終わるかもしれない。協力を呼びかける必要も、なくなってしまう。なにやってたんだろう、と思うような解決法はあって、それはみんなの心がけから出てくるのではなく、みんなから信頼されるリーダーの呼びかけに応じて出てくるのではなく、しばしば、一個人の思いつきから生じるのである。

 現実に即して考えると、温暖化問題の解決には、さまざまな方法があるわけだが、特に「偉い科学者」が考えるところの科学技術の寄与が、たいへん大きなものになるのではないか、と私は思うのである。考えてみれば「我慢すること」「努力すること」は、尊いことだが、すべて足し算要素に過ぎない。しかし、たとえばある科学者が研究してその成果として「再生可能エネルギーで走る自動車」を発明したとすると、それは二酸化炭素を削減する上で、数式を変更するに等しい強力な要因として働くのである。これは「工夫」の力だ。我慢しないで済むように、なにか賢い方法はないかと考えることである。

 確かに、工夫(または科学技術)にもどこかに限界があり、ついに工夫ではどうにもならない問題、というものが存在する可能性もある。ただ、特に二酸化炭素排出削減、地球温暖化防止ということで言えば、まだやることはけっこう残っている気が、私にもするのだ。

 こう考えると、むしろ、我々の本来すべきことは、温暖化防止に役立つ技術を見極め、それに投資すること、ではないかと思える(それは、自分こそが将来こういう問題を解決できる人間になれるよう勉強する、ということも含まれる)。重いものを力をあわせて運ぶのではなくて、みんなで台車を探そう、という話である。極端なことを言えば、なにも工夫が思いつかなくても、「政治家や偉い科学者」が解決してくれることを期待して、しっかり働き、しっかり税金を納めることだ。この地球温暖化問題に関して、とかくアメリカは後ろ向きでなっとらん国であるように私にも思えるが、むしろ伝統的に、努力ではなく工夫を尊ぶ、そうした方法で物事を解決してきた国のような気がちょっとする(単に何にも考えていないだけのような気もするけれども)。

 今日我慢するのはそれだけのことだが、今日、よく考えて、工夫して、解決法を見つければ、明日から我慢しなくてもよくなるかもしれない。そして、工夫した上で我慢すれば、世の中はものすごく変わってゆくのである。我慢しないで工夫することが、もう少し尊敬されるようにならねばならないのではないかと思う。と、こんなことを書くことで私はこの問題に関して「割り算要素」として働き始めたような気がするのである。これはたいへんいかん。ごめんなさいごめんなさい。


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