十周年を祝う このエントリーを含むはてなブックマーク

 私がこのサイト「大西科学」を作ったのは1998年の春なので、この春でちょうど十年を迎えることになる。ちょっと気が遠くなりそうな話だが、娘が今ちょうど6歳なので「独身の私」よりも「子持ちの私」がこれを書いていた期間のほうが長い勘定になる。とまあ、こういうのは他人から見るとたいへんうっとうしいことに違いないと思うのだがどうだろう。喜ぶとしても私が一人で夜中にごふごふと喜んでおればいいようなことで、ことごとしく書かねばならないようなことではない、というわけだが、実は、これにはけっこう奥の深い、いろんなレベルの理由があると思うのだ。

 まず、十年間というが、何をもって十年間とするのかという問題がある。「大西科学」という名前のサイトがインターネット上に始めて現れたのは、上で書いたように1998年の、たぶん5月ごろだったと思われる。自分のことなのに「たぶん」だとか「思われる」とは何事かという気がするが、その頃の記憶が曖昧模糊として、いまやはっきり思い出すと家庭の平和のためにもよくないのだ。正確にはいつなのか、はっきりしないということだけは確かである。

 自慢にはならないが、とにかくこういった場合、何をもって10年というべきかはそれなりに問題である。仮に、ちょうど十年でお祝いをしたいと思ったとして、だいたいこのあたりで十年、ここまで来れば確実に十年、などといったあやふやな境界しかないわけである。確かノストラダムスだったと思うが、1999年の7月に、しかし7月のいつなのかはわからないたいへんあやふやな予言をしたおかげで、せっかくの終末がさっぱり盛り上がらなかったことがあった。あれと同じことである。なんだかわからない例えだが、まあ、マラソンで言うならば「ゴールテープ」というものがなく、競技場に入って一周し終わったら、まあ42.195キロよりは長く走ったことになるらしいのでゴールとしましょうというような話である。野球で言うなら、だいたいあの草の生えているところあたりから向こうがホームラン、というような話である。まことにいい加減であり、このまま競技を強行すると、スポーツ仲裁裁判所が黙ってはいない。

 さらに気になることがある。「十周年とは何か」ということである。以前から思っていたのだが、今サイトを開設したとして、このサイトは「一年目」ということになる。それから一年が経過し、開設した日が再びやってくると、以後「二年目」となり、そのあとしばらくは「二年目」の時間が過ぎてゆく。小学校何年生というような学年や、あの投手も入団五年目なのでそろそろ結果を出さねばならない、というような場合も、だいたいこの「何年目」という数字が使われるのだが、それでいうと、このサイトは2007年の5月末に既に「十年目」に入っていたことになる。しかも、今また春を向かえ、このサイトは十一年生というまことにきりの悪い状態に突入するわけだが、これはいったい、どちらで祝うべきなのか。「十周年」という場合、通常はまる十年が経過したことを祝う(満年齢で祝う)ものだと思うが、上のように考えると、だんだんわけがわからなくなってくる。平成何年とか西暦何年というのもそうである。昭和六十年がめでたいのか、西暦二千年がめでたいのか。考えるとわからなくなる。

 考えてみればこの「年」というのも、別にぴったり何かの期間を表す言葉ではない。年は年ではないか太陽の周りを地球が公転する期間ではないかとみんな思うし私も思うが、詳しく見ればまったくそうではない。これは「太陽の周りを地球が公転する期間を地球が自転する期間で割ったその近似値である365日に、四年に一度さらに百年に一度さらに四百年に一度の調整用のうるう日を入れたり抜いたりしたもの(グレゴリオ暦)で測定した期間」に過ぎない。平均すればだいたい365.25日であるが、うるう日がどこにどう入るかで、厳密な期間は数日違う。平均年を十倍すると3652.5日ということになるわけで、この3652日というのもべつにぴったりはしていないが、特にこの端数、0.5日というのは何なのか、どこにこのツケが回されるのか、考えると不安になる。厳密にやろうと思った場合、時期によって半日遅れで祝ったりしなければならないのではないかと思われる。

 さらに論を先に進めれば、十というのはいったいどうか、ぴったりな数なのか、ということにも、当然疑問を持たねばならないだろう。前回書いた内容を繰り返すようで気が引けるが、我々が十進法を使っているというのは、かなりたまたまそうなっているに過ぎない。人間の手の指の数が一般に十本なのが理由だと思われるが、そうやって手近なものに準拠して気楽に適当に決めた結果、うかうかと見栄えのしない10などという数字を基数に選んでしまったとも言える。もしもやり直せるなら、やはり十二か八あたりを使うほうが理にかなっている気がするのだ。12は2でも3でも4でも割れるので日常生活にたいへん便利で、素数を見つける「エラトステネスのふるい」を手でやるときも、はじめに横が12列の数表を作ったほうが楽である。一方、8は2の2の2乗乗なのですっきりするし九九の表が小さくて済む。コンピューターとも相性がよい。以上のような理由があるのに、たまたまそうである10を嬉しそうに使ってしかも10なり100なり1000なりで子供のように喜ぶというのは、キリ番(しかも1777のような微妙な「キリのいい番号」)をゲットしたのでうれしいなという、そんなことで喜ぶのと本質的に同じではないかと思うがどうなのか。

 と、だんだん十周年が嬉しくもなんともなくなってきて、これはたいへんよいことだが、そもそも、こういうので「開設から何年」ということには、それほど意味はないとも言える。たとえば最初の三日くらい書いてあとは完全に放置したページでも、10年経てばちゃんと十周年はやってくるのであって、もちろんこれは偉くもなんともないのだ。では回数だろうか。「第千回を更新」なら少しは誇ってよいか。これもそうではなく、たとえば適当なキーワードで検索をかけた結果を表示しただけみたいな屑ブログが千ページに達したって別に偉くはなく、単に迷惑なだけである。これをマッシュアップというならお前をまずマッシュしてやりたい、といつも思っているが、このマッシュしたブログとこのサイトは、では何が違うのか。実は思ったほど、差なんてないのではないか。

 考えてもみよう。10年前のこのサイトと今のこのサイトを比べて、今の私が10年前の私に誇れることは何だろうか。更新頻度は落ち、メンテナンスも遅れがち、掲示板も不活発である。トップページにゆかいなGIFアニメを載せるのもやめてしまったし、アクセスカウンターは壊れたので捨てた。その上、ミクシィに日記など書きはじめてしまい、そのせいでまとまった文章を書くということが少なくなってしまっている。特に日記のくだりは、それだけはやったらあかん、あかんねやでえ、と10年前の私だったらきっと言うと思うのだ。駄目である。本当に駄目だ。もともと駄目だったが、磨きがかかった。芯に一本、すっと筋が通った駄目さを発揮し始めた。

 しかしまあ、あかんのでもう投げ出そう、と思わないで適当でもええやん続けてるだけええやん、とも言っている気がするので、元気を出して、これからも続けるのである。とりあえず、次の目標は開設二十年としたい。今から十年後、私がもう少しまともなことをやっていますように、と祈ってこの文章の締めくくりとさせていただくのである。


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