製造物責任法、PL法というものが施行されてからか、あるいはその前からそうだったのかはわからないが、物を買うとついてくる、いわゆる取り扱い説明書を読んでいると、逃げ口上的なことがいろいろ書いてあってなんだか面白い。踏み台にするなとか手を突っ込むなとか振り回すなとか、混ぜるなとか吸い込むなとか粘膜に使用するなとかそういうあれだが、こういうので一番気が利いていて将来もしかしたら決まり文句になるかもしれないと思われるものが「目的外に使用しないでください」という一文である。たとえば綿棒において目的外とは何かと考え始めると夜も眠れないが、まあ、こう書いておくと確かに間違いはない。
考えてみるとペットボトルでロケットを作るとかスノコを分解して物置台を作るとか、ああいうのは目的外使用の最たるものである。スノコに目的外に使うなと書いてあると、カリスマ主婦的な工夫は、少なくともメーカー的には絶対に避けるべきことであり、あるいは説明書きのそうした予防線がリユースなり工夫の余地を消費者から奪ってしまうのではないか、などとまじめに心配する必要はおそらくない。あれをまともには受け取っている人はあんまりいないだろうからで、要するに、あれは臆病から来た記述だろう。世の中にはいろんな人がいるので、誠実に作り誠実に販売している商品について、いちいち目的外というか奇想天外な使い方をする人はいる。いてもいいのだが、その結果、怪我をする人がたまにいる。それだけならばまだよいが、その不幸を分かち合うべく、メーカーを告訴する人がまれにいる。広く販売している商品にはたくさんのユーザーがいて中には奇想天外でしかも告訴する人がいるかもしれず、そうなったらどうなるか。ぶるぶるぶるたまったもんじゃねえや、という、そういう心配から「目的外使用禁止」と書いてあるということは、どうやら誰の目にも明らかであると思われる。
しかし、そういう予防線の結果、説明書はなんというかたいへん臆病で弱虫な記述にあふれているという、そのことは確かである。耳掻きに使う綿棒で「外から見える範囲に使ってください」とあるのはその最たるもので、あれは耳の奥までぐいぐいと突っ込むから気持ちええねやないかい、と私は言いたいのだが、こう書くことでこれを読んで真似をした人がどうかすると鼓膜を破ったりして、しかもその不幸を分かち合うべく大西科学を告訴されたらどうなるかと考えれば、ぶるぶるたまったもんじゃねえや、と私だって思う。「真似しないでください」と書くしかないのである。考えてみれば、せち辛い世の中である。裁判所なんてなかったらいいのに。
さて、そうしてすべての商品に「目的外使用をしないでください」と書くのは、考えてみればこれは時間と資源の無駄である。店で売られているような物は、どれをとっても、どんなものであれすべて、目的外に使用していいかと訊いて、いいよと言いそうなメーカーはちょっとありえない。というより、目的外に使用しその結果怪我をしても、それをメーカーに責任を負わすのはかわいそう、というのは普通の感覚ではないかと思うが、どうなのだろうか。目的外使用がメーカーにとって主流の収入源になっている場合もあって、そういう場合のことを考えると難しい問題ではあるが。
さて、メーカーの責任をさておいて、単に資源のことを考えた場合、個々のメーカーに「目的外に使用しないでください」と書かせるのは、あまりいいことには思えない。実用的には「目的外に使用するのは自己責任だからメーカーを訴えないようにしよう」と社会のルールで決まっていれば、綿棒から大型建設機械まですべての品物に同じことを書く労苦から我々は解放される。節約のためには、もっと大元、たぶん小学校の教科書あたりで子供に「店で買ってきたものは目的外に使用しない」と教えておけばよいのではないかと思うのだ。
と、書いておいてなんだが、やはりそうではないかもしれない。指導要領にそう書くと、日本は広くていろいろな教師がいるので、その中にはかならずや、教科書を字義通りに受け取って、目的外使用を許さない、ということをびしびし子供に叩き込む教師がいるに違いないからである。消しゴムをミニカーに見立てて遊んでいたら目を三角にして怒ったりする。日本の人々は良かれ悪しかれ書いてあるものを字義通りには取らずに、まあええがなかまへんがなと裏を読んだり拡大解釈したりして日常の生活に役立ててきたのであり、教科書に書くとそれが許されないきらいがある。特に、西洋的な格好いい先生が危ない。
だから、たぶん我々には、人生の取り扱い説明書のようなものが必要なのだろう。それも、取り扱い説明書のもっとも便利な部分、このボタンを押すとこうなるとか、困ったときはまずコンセントを確かめろとか、そういうのではなく、こうしてもメーカーは責任を取れません、と書いてある、その最も臆病な部分が書いてある説明書こそが、実は必要ではないか。書いてあることは建前に決まっているのだが、よく読むと確かに書いてあるので、他を訴えない。一人で不幸を嘆く。あえて訴えても、どうして説明書読まなかったんですかと裁判所の受付(というものがあるかどうか知らないがまあそういうところ)で言われる、そういう態勢を整えるべきかもしれない。
この人生の説明書は、しかし説明書なので、木で鼻をくくったようなことが書いてある。たとえば食事だ。家電の調子で人生の説明書が書かれていたとすれば、そこにはたぶん、バランスが取れた食事を三食食べましょう、などというあまっちょろいことは書いてない。そのへんで買ったものは信用せずメーカー純正の食事を食べろ、というふうに書いてある可能性が高い。メーカー純正とはこの場合何ぞや、と思うが、まあつまり、母親の手料理である。酒や煙草は適度に、などとも書かない。絶対にやめてください、と赤い三角の中にびっくりマークが入った印を使って、書いてあるはずだ。
自動車の運転には、ヘルメットをかぶって四点式シートベルトをつけて厳重に制限速度を守って、といったことが書いてあると思うかもしれないが、そうではない。自動車の運転はするな、と書くほうが節約的だしよりリスクが低いからである。もっと言えば、他人の運転する自動車にも乗らないで済めば乗らないほうがよいのであり、それどころか、どうしても必要でない限り外出するなとか、特に夜間は外に出るなとか、そういう戒厳令みたいな話が書かれることになる。どう考えても、そうなる。
綿棒の話はどう書いてあるか。人生の説明書を編纂する立場で考えると、これはもう、耳かきなどするなと書くしかない。どうせ、イギリス人は耳かきなんかしないのだ。いや、聞いた話だが確かそうだ。耳が痒くてしようがないときは、そうだ、医者に診せろと書いてあるのではないだろうか。耳が痒いくらいで医者に行っていては大変だが、それどころではなく、別の理由から定期的な健康診断を、たぶん一ヶ月に一回くらいの割合でせよと書かれるはずなのである。それに、年に一度は内臓を裏返すくらいの徹底的な検査をしなければならない、とも書いてあるだけは書いてあるに違いない。だから、耳が痒いことも医者に相談して、何の問題もないのである。むしろ、専属の医者をつけて、毎日相談せよと書いてあってもおかしくない。あまり関係ないが、思いついたので書いておくと「日光に当てると変色する」と書いてあると思う。
そしてもちろん最後に「目的外には使用しないでください」というのは書いてあるわけだが、考えてみると人生の目的とは何なのか、考え始めると深い。少なくともここにこのようなことを書くことは明らかに私の人生に関して目的外であると思いつつ、ここで筆を置くのである。思い出したが、これを読んでいるあなたも今、人生を目的外に使用していると思われるので、説明書的には厳に慎まれたいと思う。本当に、私の目的って、なんでしょうね。