乗り込んだ電車は座れないくらいには混んでいて、しかたなく私は、ドアの前に、先輩と二人、立って外を見ていた。出張からの帰りである。電車に乗ってすぐ、曇り空からぽつぽつと雨が降り出して、幸いそれほどひどい雨にはならなかったが、しとしとと降り続いている。まだ時間は早いのに、空は夜のように暗かった。
「大変でしたねえ」
と、こういうとき、黙っていられないのが私の性分である。沈黙それ自体が何かいやで、そこを埋めたくてたまらなくなる。面白い話をいつもできるわけでもないのに、しゃべりはじめてしまうのである。このときも、私は横で同じように外を見ている、先輩に話しかけたのだった。
「ああ、大変だったな、大西」
「こてんぱんでしたね」
「こてんぱんだったなあ」
と先輩は笑っている。もともと厄介な、問題になりそうな客先ではあった。この先輩と一緒なら大丈夫だ、なぜならばこの人は私よりずっとしっかりしているからだ、と私は朝まで思っていたのだが、実はそんなことはなく、しっかりしていても叱られるときは叱られる、ということがわかった出張だった。
「人間として、一回り大きくなるくらい叱られましたねえ」
「そうだといいなあ」
阿呆なことを言う私と先輩を乗せて、電車は走る。
そのあとは沈黙である。私も、先輩も、あんまり思い出したくなかったのかもしれない。今日はとりあえず家に直帰して、明日から会社で対策である。逆に言えば明日の朝会社に来るまでは、まあ、考えないことにしようと、少なくとも私はそう考えていた。先輩も、近いことを考えていたのではないだろうか。いつもぴしっとした先輩のパンツスーツ姿も、今日はよれっとして見えた。私は、いつだったか、同じように先輩と一緒に出張に出たときのことを思い出したりしている。あのときはものすごい大雨で、小さなバス停のひさしの下でかなりひどい目に遭ったものだが、先輩の姿はそのときよりも今のほうがずっとよれっとしている気がする。精神的なものかもしれない。
私と先輩を乗せた普通電車は、名も知らない川にかかった鉄橋を渡って、ゆっくりコトコトと走っている。地平線まで開けた景色の中、遠くに送電線の鉄塔が、何本も立っているのが見えた。このへんに発電所があるのだろうか。それを見て思い出したことがあって、そろそろ沈黙にも耐えられなくなり、私は再び口を開く。
「鉄塔に、赤いの見えますよね」
「見えるよ」
と先輩が言った。
「飛行機がぶつかってこないようにしよう、という」
「警告灯だね」
二人でぼうっと見ているうちにも、赤い光を明滅させながら、鉄塔の列が遠くなってゆく。
「昔、大学生の頃ですけど、私が通ってた電車から、鉄塔が見えたんですよ」
「うん」
「高圧の、鉄塔じゃなかったと思います。一本だけぽつんと、ものすごく遠くに」
「へえ」
「その警告灯は、赤いのじゃなかったですね。白いフラッシュでした。一秒間隔くらいで、ぴか、ぴかって」
「ふうん」
と先輩はうなずくと、まあ、決まってるわけじゃないんだろうな、という意味のことを言った。
話し始めると、いろいろ思い出す。私はこう、言葉を継ぐ。
「思い出しました。不思議なんですが、見ていて、その閃光が、こう、横にずれて見えるんですよ。鉄塔から」
「え、どういうこと?」
私はどう説明したらいいか、少し考えて、それから言った。
「あの、遠くの鉄塔が、こう、ゆっくりと動いているでしょう。いや、鉄塔は動かないですけど、こっちが動いてるから」
「ああ」
「見ていると、鉄塔の頭のところと腹のところ、二ヶ所ができどき、ぴかぴか光ってるわけです。飛行機避けに。それが、他の風景を見ていると、鉄塔からずれて見えるんです。鉄塔じゃないところが光って、それが」
と私は身振りを使って説明する。というのはつまり「ぴかぴか」のところを、上向きにした手を開いたり握ったりして説明するということである。かなり、へんな身振りだ。
「こう、横にずれるわけです。ところが、ありゃと思って鉄塔を見ると、ちゃんと鉄塔が光ってるという」
「うーん、それはつまり、錯覚じゃないかな」
「私も、そう思います」
私は笑った。
「いや当たり前じゃないですか。そうじゃなかったら、私がなんだと思っていたと思ってるんですか」
実はそれは鉄塔ではなくて怪物であり、光っているのはその目玉なのである。ときおり怪物が横を向くので、光がずれて見えるのである、というような話だろうか。まさかそんなわけはないではないか。そう言うと、先輩は私のほうをちょっと見て、くすくすと笑った。
「たぶん、残像だとは思いますよ。ブラウン管の前で手をひらひらさせるとか。そんなあれで。鉄塔が動いているから、光が置いていかれてたんでしょうね」
「あー、なるほど」
と先輩はむやみに感心している。ブラウン管というのが、もうすぐ若い人にはわからなくなるのではないかと、私はふと気づく。まあ、うちの子は三人とも「生まれたときから家には液晶テレビ」という世代ではないわけだが。先輩のところはどうだろう。確か、うちの末っ子と同学年だから、もうすぐ三歳のはずである。しかし、こういうのは世代より、うちに格好いい薄型テレビがあるかどうかという、どちらかといえば偶然に左右されそうな気もする。
「でもね、おかしいんですが、こうして右を見てると、景色は右に動くでしょう」
「うん」
これは、電車の、進行方向向かって右側のドアの前に立って外を見ているので、という意味である。私は、学生時代の、景色を思い出していた。あのときもこうして、ドアの前に立って、外を見ていた。遠すぎて、影のように見える鉄塔があって、それがぴかりぴかりと。
「それで、残像だったら、動く景色に置いていかれるかたちで、左に光がないと変だと思うじゃないですか。思うわけですよ。そうですよね」
「ふう。そうかもしれないね」
と先輩は、ため息と一緒にこう言った。ああ、疲れてるんだなあ、今晩のビールのことしか頭にないのかもなあ、と私は思ったが、とにかく言ってしまう。
「ところが、その鉄塔は右に光がずれて見えていたんです。変だなあ、と思ったりしましたよ」
私は言いながら懐かしい気持ちになる。以上のようなことを、あるとき真剣に考えてみたわけでは、実はない。毎日そこを通り過ぎる電車の中で、毎日数秒ずつ、他のことを考えたり音楽を聴いたりしながら、ちょっとずつ考えていたわけである。毎日電車で立って外を見ているわけでもない。ありゃ、なんだこれ、とある日思う。それから数日してまた見かけて、ああ、錯覚だな、と納得する。それからまた数日して、錯覚は錯覚でいいとしてなぜだろうと思う。次の週に、ああ、残像に違いない、と思う。そんな感じである。あの頃には、ほかに考えることがいろいろあった。今もあるが。
「で?」
と、物思いに沈んだ私に、先輩が言った。
「それだけです。オチがなくてすいません」
「いや、そういうことじゃなくて。どうして反対にずれたの?」
「さあ、それが」
私にもよくわからなくて、ともごもごと私はいいわけをする。実際、なぜなのか。何か「実はあれは鉄塔ではなく巨大な怪物である」という妄想以外の説明をすることは可能だと思うのだ。しかし、この私の「電車通学」は何ヶ月も続かず、すぐに終わってしまったので、これ以上それについて考える時間はなくなってしまい、結局よくわからない。今となっては、すべては私の記憶違いということもありえる。
ただ、と私は電車から、そろそろ本格的に暗くなりはじめた景色を見て、思った。今考えて、一つ可能性として、説明を思いついた。その鉄塔の前景である、もっと手前にある林や家屋などの景色は、鉄塔よりも速く左から右に移動しているので、それから相対的なことを言えば、鉄塔は「左」に移動しているように見える。これに関連して、何か説明がつけられるかもしれない。この残像現象が、手前の景色に注目したときだけ起こるとしたら、これはまず、そういうことなのだろう。
と、思ったものの、込み入った、そんなにものすごく面白いわけではない話をしてしまったという反省もあり、まあ、上のような説明はしないで黙っとこう、と思った私は、ふと、先輩が、こっちを見ていることに気づいた。
「えーと」
なんですか、と言った私のほうを、やはり先輩は見ている。なぜか私の、たぶん先輩と同じかそれ以上にくたびれているだろう姿を、上から下まで眺め回している。それから、うんうん、とうなずいて、こう言った。
「それは、大西」
「え」
「あれだよ」
と先輩は澄ました顔をしている。
「なんでしょう」
戸惑う私に、先輩は、こう言った。
「青春の、残像」