ミミックの棲むところ このエントリーを含むはてなブックマーク

 今だから白状するが、以前勤めていた職場にあった、女子更衣室がずっと気になっていた。気になっていた、と言っても、変な意味ではないのだが、いや、健康な若い男子が女性に興味を持つのはごく普通のことであって別に変なことではないが、そうではなくて、健康な若い男子が女性に抱くごく普通の興味とは特に関係なく、更衣室そのものについて、なんだか妙なものがあるぞ、と思っていたのである。

 そもそも、その職場には男子更衣室というものはなかった。女子更衣室というものがあるのだから、当然それと対になる、男子専用の更衣室というものがなければならないのだが、そんなものはどこを探してもなかったのである。職場で男子が私一人、などという状況であればまだそういうこともあってもいいと思われるが、歴史的に言って、どちらかといえばそこは男性中心の職場で、むしろ女性は少数派だった(ただ、その比率は近年かなり回復して、当時は1:1に近かった)。

 いずれにしても、どうして男性用がないのか、私は心底疑問に思っていた。朝、自転車で職場に来たあとや、夕方に場内を一周するランニングの後など、汗をかいて着替えたいと思うことはざらにあったのだが、そのための場所がどこにもないのだ。職場の私のパソコン等が置いてある席は個室ではなかったので、まさか自席で着替えるわけにもいかない。職場がもっと男性ばっかりだったらそれでもよかったに違いないが、中途半端に女性がいるものだから、そこで服を脱ぐわけには行かなかったのである。脱ぐと言ってもパンツまで脱ぐわけではなく上半身裸になる程度だが、いや、こんな話はいいですね、すいません。とにかく、私はトイレで着替えておりました。着替えるたびに「性差別だ」と思っていたことである。

 何の話だったか。女子更衣室の話だった。その更衣室は、よくわからないが、たぶん、建物ができた当初から「ここを更衣室にしよう」と思って造ったスペースでないことは確かだった。階段の一番下、いわゆる階段下を活用するかたちで更衣室が作ってあるのだが、外から見た感じ、どうも、人一人が着替えるのに、やっとの広さしかないように思えるのだ。ロッカー等を置くのはもちろん、ずいぶん大柄な人もいた女性が、その中に入って着替えることが、果たしてできるのかどうか、疑問に思えるような部屋だったのである。

 私は、その前を通るたびに思った。狭い。狭いんじゃないだろうかと。私が着替えていたトイレの個室よりも、ある意味で狭いかもしれない。こんなところを更衣室に指定されて、女性は怒るべきだったかもしれない。

 時間はあったので、私はいろいろ考えた。たとえば、もしかしてこの更衣室の扉を抜けると、その向こうに意外に広い空間があるのではないか、と。一見、この扉は、階段下の狭い空間への扉に見える。が、そうではないかもしれない。階段の横は壁だが、そちらの壁を抜けて向こうに繋がっていて、その向こうに広い、健康的で文化的な空間が広がっている、その可能性はある。更衣室は本当は隣の部屋であり、この扉はただそこへ抜けるために階段下にある、という想像である。あるいは、階段が1階で終わり、というのは私がそう思っているだけで、実はこの扉を開けると、地下室に行けるのかもしれない。女性たちは、その(地下室なので)あまり健康的ではない空間で着替えているのかもしれない。

 どうなのだろう。わからないのである。女子更衣室なので、確かめることができないのだ。絶対に誰もいない時間帯なら、入って見てみることもできるのではないかと思うが、そうはいかない。そんなことをすれば犯罪である。やましい気持ちはなかったと言って、誰が信じてくれるだろう。見つからなければ大丈夫かもしれないが、「見つからなさそうな時間帯に忍び込もうとしてたまたま見つかった」という状況を想像すると、とてもそんなことはできないのである。「いかにも見つかりそうな時間帯に誤ってドアを開けてしまった」よりもかえって罪が重い気がするのだ。

 誓って言うが、本当に、純粋に、こんな狭い更衣室があるのかという知的な興味なので、タチが悪いのである。一部の温泉宿のように、男湯と女湯が時間交代で入れ替わるような工夫があればいいのではないかと思うのだが、どうなのか。いや、男子更衣室というものはないので、それはないと思うが、ほかにもたとえば、大掃除やなにかのときに入れてもらえる機会があるかと思ったが、そういうことはついになかった。老朽化したあげく、建物が取り壊される日まで、私がそこにいる、ということもなかった。そういえば、私はその職場について、隅々まですべてを知る、という状態にはついにならなかったのだが。

 ごくたまに、仕事で遅くなり、夜中に職場で一人になったときなど、私は思ったものである。実は、あれが女子更衣室だと思っているのは私だけで、本当はただの物置だとしたらどうだろう。考えてみれば、私はあの部屋に女性が入るところを見たわけではないのだ。ただ、扉に「女子更衣室」と書かれたフダがかかっているので、そうか女子更衣室なのか、と思っているだけである。昔、もっと人類がなんというか小さかった頃にそうだっただけで、今はもう、誰も使っていない可能性もある。

 そうだ。そうかもしれない。一見女子更衣室のように見えるが、あれは本当は、女子更衣室のかたちをした、階段下に住んでいる魔物なのである。古くからここにいる女性たちは、あれが本当は更衣室などではないことに気づいており、決してうかうかと使ったりすることはなく、必要なときはトイレで着替えたりしているのだが、たまに、新入りが騙されてあそこで着替えようとする。着替えを持って、あの扉を開けたとたん、中から長い舌がべろんと出てきて、ばくっ、と食べられてしまうのである。悲鳴を残してばたんと扉が閉まってしまうと、あとは骨まで消化されて、なにも残らない。故郷で親御さんが心配するのである。

 そういえば、私の職場の隣の席にいた、あの女性は、いったいどこにいったのだったろう、と私はたった一人、空になった席を、いつまでもぽかんと見つめていたり、したのである。


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