もしかして自意識過剰なことを書き始めていたとしたら恥ずかしいのだが、たとえば、仮にの話として、この「大西科学における最近の研究内容」を読んだ人が、わあ、なんて物知りな人だろうと私のことを思ったとしたら、それは大きな間違いである。もちろん、そうではなく「バカがバカなこと書いてるなあ」と思われているかもしれず、その場合は正しい理解であり問題はない。しかし正味の話、自分で読み返してみて、こう思うことがあるのだ。なんて物知りな人なんだろう。しかし書いたのは自分なのでこれは一種の恐怖体験であると言っていいが、読んでみると確かに、今の私の知らないことについて自信ありげに断言している過去の私がいる。しかも、ためしに調べてみると正しいらしいのだ。恐ろしいことである。
これはつまり、書くときに、調べながら書いているのである。調べること自体は目的ではなく、文脈上どうしても必要なので、しかたなくネットで調べたり教科書を参照したり、時には図書館に行ったりして、しかるべき文献を参照しながら書く。そんなにイヤなら雑文など書かねばいいのだが、まあ、ここで調べるのをやめると今まで書いてきたのが無駄になるとか、そういう動機でもって調べるのである。書いたときには、まあ雑文として書ける程度には理解しているわけだが、こんな態度で得た知識が身につくわけがない。たいていはその場限りになってしまい、だから逆に、一年ほど経ってから読んでみると驚くわけである。えーと、バカがバカなことを書いていると思ってください。
私は思うのだが、ある事柄に対する知識の度合い、習熟度に関して「まったく知らない」と「自分の能力の一部として自由に使える」の間に、一段「調べればわかる」という段階があって、これは「まったく知らない」とは厳然として別のものではないかと思う。高校か大学か、どこかで一度習ったのだが、今となっては思い出せない、ということはたくさんある。恐ろしいことに半年間も授業を受けて、びっくりすることに最後には試験まで受けて、なおかつとんでもないことに合格して単位までもらったはずなのに、もはやできなくなっている。できないというのは謙遜ではなく「たぶんできると思うけど間違ったら恥ずかしいから黙っている」という状態でもなく、確実に、厳として、物理的にできない。
しかしこれが、では最初の「まったく知らない」に戻ってしまった状態かというと、そんなことはないのだ。たいていの場合、実はちょっとは覚えている。忘れたとしても、それはもう一度学校に入って勉強しなおさなければわからない、というほど厳しい忘れ方でなく、教科書を読めば内容を思い出し、暗記こそしていなかったが引き写した式を使えば実用的な計算もできるのだ。これは、今までまったくかかわりがなかった分野に比べればかなり理解しているというべきであり、実際、そういうのにあたると教科書を読んでもわからない(ことがある)のである。大学というところは、限られた専門分野以外では、おおむねこの「調べればわかる」という状態にまで学生を鍛える分野なのではないかと思う。
さて、私にとってそういう「調べればわかる」ことの一つに「エントロピー」というものがあって、ずっと気になっていた。エントロピーと聞いて、皆さんは何を想像するだろうか。宇宙の熱的な死とか、マクスウェルの悪魔とか、生物の進化とか、あるいはこれらとは別に情報量とか冗長度とか、そういったことではないかと思う。私はそうである。エントロピーは閉じた系ではだんだん増加して、減少することがない。最大になったそのときが平衡になったときで、そこから先、その系では何も起こることはない。そんな感じである。
しかし、そういうのはぜんぶ、エントロピーの性質であり、また最初の定義から派生してきたものであって、定義そのものではない。エネルギーで言うと、仮に「エネルギー」という言葉が本来何を指すのかまったく知らないで「ああ、保存するやつでしょう」「確か相対論的には質量と等価なんですよね」「石油とか太陽光とかに関係してるあれでしょう」と言っていたとすると、間違ってはいないにしろずいぶん変なことを言っていることになる。「高いところにある石とこのガソリンはどっちがエネルギーが高いですか」と訊かれると、わからなかったりするのだ。それはちょっと、理解したことにならない。しかし、エントロピーに関しては、私はまさにそんな感じなのだ。ああ、聞いたことあるよ。あれだろあれ。おれの部屋は高いよエントロピー、などと酒を飲むときの話にはできるが、ではこの部屋のエントロピー計算して、と仮にいわれたとしたら、ハタと困ってしまう。
もちろん学校では「あれです」などという授業のやりかたはしない。大学の理系の学科に入って「熱力学」ないし「統計力学」という授業を受けると、その始まってすぐあたり、わりあいなんというかちんぷんかんぷんである頃に、エントロピーなる量が定義されて導入される。たいていの理系の大学生はここにいたるまでに「あれだろあれ」的な意味において、エントロピーに関して知識を得ているので、ぼーっと授業を聞いていた学生は突然に思うのである。わあ、エントロピーが出てきたぞと。学部の授業において同じようなことを感じる瞬間はいくつかあって、たとえば量子力学や特殊相対論を学ぶときがそうである。先生はやりにくいのではないかと想像するがどうなのか。
ともかくエントロピーである。理化学辞典を引けばちゃんと書いてあるが、熱力学的なエントロピーは日本語で言うと「変化容量」という感じの言葉である。ではそう訳せばいいのだが、現状エントロピーで定着しているのでもはやそれは変えられない。定義はこうだ。ある系が微小な熱量ΔQを吸収すると、そのときの絶対温度をTとして、エントロピーSはΔS=ΔQ/Tだけ増える。
以上これは引き写しに近い内容だが、ああそうですか、という話であり、タイプしていても私の心には何も響いてこない。本当に一度でもちゃんと勉強したことがあるのだろうかと底知れない不安を感じるが、熱力学の第二法則からエントロピーは減少しないということが導かれ、さらに統計力学ではこれは「可能な微視的状態」に比例することがわかる。これを「系が乱雑になるにつれて増加してゆく、ということなのだな」と大づかみに理解することは容易だが、待て、と心のどこかで若い私が大声を上げているのが聞こえるのだ。だからお前は駄目なんだ。そうやって大づかみに理解したつもりになって大学を卒業しおおせたからこんなんなっちゃったんと違うんか。
エントロピーに関していけないのは、すぐ下に「情報エントロピー」という別の量が定義してあって、こっちはたいへんわかりやすい、ということである。本当にわかりやすいのでちょっと詳しく書くが、ここに情報がある。たとえばある集団の血液型について、一人につき一つA,B,O,ABの4つのどれかであり、それを書いた紙がある。これは情報である。血液型は四種類なので、単純には、これは2ビットの情報で表すことができる。A,B,O、ABをたとえば10、01、00、11と符号化するといいと思うが、これは0か1どちらかの状態を取るフラグ2本で、その人の血液型をはっきり記録しておける、ということである。一学年百人の児童の血液型を記録しておくには、100×2で200ビットの情報を書き込んだ、紙などが必要である。
ただ、これは情報量としては過剰で、実は、ここまではっきり記録しなくても十分である。というのは、実は血液型というのは型によって数に差があるからで、以下日本人ではという話になるが、A型の数が多く、人口全体の約40%を占める。だいたいのところを言えば、Oは30%、Bは20%、ABが残り10%という、たいへんわかりやすい比率になっている。こういうことがわかっている場合、血液型の情報量は、実は2ビットよりも小さい。これは工夫すれば、200ビットも使わないで百人の血液型を記録しておけるということである。実際どれだけになるかというのが、次の式で計算できる。
H=−ΣP(i)log2(P(i))
ただし、P(i)はi番目の状態をとる確率である、などと書いてもわからないが、つまり、
H=−0.4×log2(0.4)−0.3×log2(0.3)−0.2×log2(0.2)−0.1×log2(0.1) ≒1.85
血液型には、1.85ビットの情報しかない。これは、百人の血液型を記録する際、うまくやれば185ビットで済む、ということを意味している(符号化の方法を工夫して、たとえばA型を1、O型を01、B型を001、AB型を000というふうに符号化するだけで、約190ビットまで減らせるだろう)。このHを情報エントロピーという。仮に4つの血液型が同程度の頻度で現れるものであれば、どうしても一人につき2ビットの情報が必要になるが、このときにエントロピーも最大になる。
どうだろう非常にわかりやすい。情報ではエントロピーというのはそうなんですねえ、と納得して、そろそろ腹も減ったので晩御飯を食べることにする。しかも今日はちょっと暑かったのでビールの一本もつけていただくことにする。すると、どうだろう、これはどうも不思議なことだが、熱力学のエントロピーの理解がいつまでも進まなかったりするのである。情報エントロピーじゃなくて熱力学的なこっちのエントロピーは、ええと確か、何かをなにかで割ったら増加分になるんだなというような、かすかであいまいな理解を残しつつ、私は明日も生きてゆくことになる。たいへんいけないことだ。そして、そんな私にもビールはうまい。いけないことだ。