浮鯨撃ちの少年 このエントリーを含むはてなブックマーク

 どうしたわけか、周一には昔から友人が多かった。学校でもそうだったし、卒業してからも祭りや近所の集まりなど人が集まるときには、気づけば必ずかれの周りに人の輪ができている。「どうしたわけか」ということはないと思うが、まわりに比べて男前であるとか、才気にあふれているとか、そういうことはないのである。ただ、悩みなどなさそうに、いつもにこにこと笑っているかれの周りに、人はいたがるのかも。周一とは幼なじみの間柄である照も、もしかしたら客観的に見ればその一人であるかもしれないのだが、たしかに彼女も、周一のどんなところが好きなのか、他人に説明しようと思っても難しい。

「ずっと思ってたんだ。周一くんは、いつも空を飛べて、いいなあって」
 と照は言った。周一は、いつもと同じように、かすかな火薬の匂いをまとって、こく、とうなずいた。照の目に気づくと、声に出して、
「あい」
 と返事をしておいて、それでは自慢することになってしまう、と思ったものか、
「ああ、いやあ、まあ、飛ぶと言ってもなあ」
 と、てれたように頭をかいて、付け加えた。それ以上は何も言わずに、空を見ている。つられたように照も、お下げ髪を揺らせて、空を見上げた。
 そうして、ひさしの深い縁側に並んで座った二人の上には、夏の空が広がっている。雄大な、あるいは荘厳な、と言えるかもしれない。故郷の山々の間に立ち上がったおおきな雲が、白く明るく、明るすぎてかえって幻のように感じられるほど強く輝いて、そうして見ている間にも少しずつ、青の空へと盛り上がりながら、いっそうおおきく、形を変えてゆく。
「ほらおれ、竜御室だから。飛び上がってから降りてくるまで、ずっと室の中だから」
 と、しばらくそうして入道雲を見ておいて、周一はやっと言葉を継いだ。まだ話が続いていたのだ、という意外さと、そうして真剣な顔で説明しているのが「自分の仕事など大したことないのだ」ということであるという、その律儀さに、照はおもわずくすくすと笑う。
「ほんとうだ。どうってことないんだ。おれなんて竜御士としてはぜんぜん、ひよっこだし」
 照の笑い声を聞いて、周一はますます真剣にそう言った。

 周一と姉のクニが、いつごろから捕鯨船に乗るようになったものか、照は幼すぎて、よく覚えていない。それくらい昔から二人は、かれらの父とともに浮船に乗っていたのだ。しかし、考えてみれば三つ四つの子供に捕鯨船を操舵したりできるはずはないので、周一も、最初から竜御士として乗っていたわけではない。最初は誰か、別の大人が浮船を操舵していたはずである。はずなのだが、そこのところをいくら考えても、照には筋の通った説明が思いつけないのだった。照には、周一やクニは生まれたときからずっと、父六郎太との三人で、浮船を飛ばし、浮鯨を狩っていたような気がする。周一には、姉とおなじ、くに、という名前を持つ歳若い叔母がいて、その人がかつて《峰越丸》の竜御士として浮船に乗っていたのだ、と聞いたことはあるが、彼女は周一が生まれる前に、事故によって亡くなっていた。照も会ったことはない(しかしこれは、めったにない悲劇というわけではなかった。浮船乗りは、天寿を全うするのが難しい職業なのだ)。

「あ、ねえさまや、とうさまは、別だけどなあ」
 と、周一はうなずく。「大したことない」という自分の言葉を受けたものだが、いちいち微妙な間が開くので、隣にいる照にも、なにが別なのか、よくわかっていない。ただ、周一の表情から、かれが姉と父のことを好いている、ということは伝わってきたので、照はそのことがなんだかうれしくて、周一のことを見ている。
「ねえさま……」
 と繰り返して、照はなんとなく、その名前を言った。
「クニさん」
「あい」
 と周一はうなずいた。口元が笑っている。姉のことが話題になることが、うれしいのだ。

 一つ年上の姉、クニのことが、周一の自慢の種だった。竜御室という、火箭(ロケット)式の捕鯨船における操舵室兼機関室にこもっている周一と異なり、クニは空に向かって大きく開いた開放甲板に立ち、捕鯨砲を操って、遠くの浮鯨に銛を撃ちこむ射手、ほんとうの意味での浮鯨撃ちだった。
「そのねえさまが撃った浮鯨の、大きかったこと。浮珠を四つ割ったって、びくともしないくらいで。やあ、照ちゃんにも見せてやりたかったなあ」
 と周一は、身振りを交えて照にクニの武勇を説明する。照は、自分自身浮船に乗ったこともないくせに、周一が楽しそうなことがただうれしくて、自分のいちばんの笑みを、周一に向けている。周一は照に向けて、クニが、天才と言ってもいい腕前を持っていること、それは自身が天才と言われた射手である父の六郎太もみとめるところであること、自分はそれほどの腕をついに身に付けられず、でもそんなことはどうでもいいこと、竜御室が心底、じぶんの性に当っていることなどを、話す。
「クニさんも、行くの?」
 ふと周一の言葉が途切れたところで、照は訊いた。周一が何も答えず、空を見上げたので、またつられて、照も空を見てしまう。二人の上で、空はますます青く、白い入道雲は、天を衝いておおきくなってゆく。
「あい、そりゃあもう。おれが行かなくったって、ねえさまは、行くよ」
「そう」
 照は、なんとなく縁側から振り返って、周一の家の奥を見た。明るさに慣れた目には、家の中はどうにも真っ暗で何も見えず、ただ、ひときわよどんだような闇の奥に仏壇があって、そこに灯明があがっていることだけは、どうにか見て取れた。
「じゃあ、この家」
 照は首を振って、周一の顔を見る。周一は照の顔を見返している。
「誰もいなくなっちゃうんだね」
「あい」
 と周一は、うなずいた。この小さな家。裏庭に、塀に囲われて、火薬を調合する作業場があって、鋭い銛や綱が束ねられて置かれていたり、時には浮珠が白い絹に包まれて吊られていたこともあった、幼い照には神秘的以外の何物でもなかったこの周一の家が、なくなってしまう。そして。
 そして、その次は、照の心には浮かんだけれども、言葉にはならなかった。
「行かないといけないの?」
 それは照にもよくわかっていることでもあり、やはりわからないことでもあったからだ。

 たぶんそれは浮鯨のためであり、そして浮珠のためである。かつては特別に勇敢な、そして特別に限られた人々によって行われていた曲芸に近い「捕鯨」という仕事は、今やこの社会の一部として受け入れられ、それどころか産業革命後のこの世界において、それなしでは文明そのものが成り立たないほど重要なものとなっている。重量を軽減する機能を持つ「浮珠」はこの明治の世においてはあまりにも強く求められており、そしてその浮珠を産する唯一の生物である「浮鯨」は誰もが追い求める貴重な資源となってしまった。
 そして、浮鯨は、そうして強く求められた結果、もはや、かつてはそうだったように漁に出れば手に入れることができる、求めればそこにある資源では、なくなってしまっている。日本の上空で浮鯨を見つけるのは、ほとんど不可能になりつつあった。それには浮鯨の生態──中国大陸の奥地にある、世界最大の山脈の上空がかれらの住み処であり、そしてそのうちわずかな、寿命の終わりを迎えた個体だけが、高度を落としながら「下流」である日本列島のほうに流れてくるという──が関係していた。捕鯨船に蒸気機関が導入され、数が増えて漁が組織的になり、浮鯨を狩る能力が増すにしたがって、浮鯨はますますまれに、ますます高く、そしてますます西のほうでしか、手に入れることが難しくなっているのだった。あるいは、日本という国が古来領土としていたこの列島では、この先、十分な浮鯨はとれなくなってしまうのかもしれない。

 でも、周一くんが、行かなくてもいいのに。
 照は、そう言いたかった。周一の父、六郎太さんはしかたがない。いつも無口な、生まれながらの浮鯨撃ち。かれはたぶん、空でしか生きてゆけない男なのだろう。そして、その戦いの庭がもうこの空ではないというなら、行かなければならない。
 でも、周一くんが、クニさんが、行かないといけないのだろうか。捕鯨組合の組長に率いられ、父親とともにそんなに遠くへと。危険で、孤独で、実りの薄い土地までゆかなくても。
 それ以外の道だって、と照は思う。「浮鯨撃ち」じゃない生き方だって──あるんじゃない?
「周一くん?」
「あい」
 呼ばれて周一は、空を見るのをやめて、照と目を合わせた。やさしい笑みを浮かべて、これは姉に似た、澄んだ瞳で照を見ている。照は、その瞳に映っている自分の姿を見た。お下げ髪の、まだ幼さを残した、女の子。周一の母、やはり若くで亡くなったあのきれいなお母さんに比べればほんの子供で、クニさんに比べても、どうしようもない小娘に過ぎない。
「ううん、なんでもない」
 だから、照は言えなくて、首を振ったのだった。私と一緒にいてほしい、なんてことは。たぶん周一は、照がそんなことを言っても、ますます困ったように笑うだけだろう。
「そうか? あい」
 周一はそこで、ぽん、と自分のひざを叩いて、立ち上がった。そのまま何歩か庭を歩いた周一の後ろ姿を見て、照は、今自分が何を失ったのか、まだわからなくて、それでも信じられないほどの喪失感にびっくりしながら、ほかにどうしようもなく、つられたように、自分も縁側から降りる。

「まあ、そんなに悪いこともないと、思うよ」
 はは、と周一は笑った。そういえば、周一はいつもそう言っていたなと照は思い出す。もしかしたら、つまりそれが、照が周一のことを好きだった、その理由ではなかっただろうか。周一は、それに気づかず、まだ空を見ている。
「そうだ照ちゃん、デンさんと、良太が」
 と周一は、近所の友人の名前を挙げて、
「遠征の祝いをしてくれるってさ。照ちゃんも来る?」
「ううん、いい。ありがとう」
 照は首を振った。周一のことは好きだが、周一がデンさんと呼ぶ、伝吉のことはあまり好きではない。いつも、なにかといえば照のことをからかうからだ。
「そうかい? あい、じゃあすまないけど、またね」
「うん」
 照は手を後ろで組むと、なんだかぺこぺこしながら奥に入ってゆく、周一の姿を見送った。周一はなにが嬉しいのか、にこにこして、照に手を振ってみせる。
「さよなら」
 照も手を振って、しかし、自分でもどうかとは思うものの、なかなか立ち去りがたく、ふうと息を吐く。もう一つ、ふう。
 照は、ふと空を見あげる。さっきの雲がどんどん広がってきて、あんなに明るかった日が陰った。夕立になるのかもしれない。照の目は自然に、この広い空、そのどこかにいるはずの浮鯨を探したけれども、もちろんそんなものは、そこにはいなかった。


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