自分を信じて突き進め このエントリーを含むはてなブックマーク

 何でもいいのだが、ある種の選択について「自分の直感を信頼しますか」という質問をする。「信頼する」という人もいるし「信頼しない」という人もいるだろうが、直感で判断するというのは結局、これまでの経験その他から、いわゆる科学的な手順にはよらないで判断をしているということであり、本来あまりほめられるべきことではない。「占いを信用しますか」と同じような質問になるのかもしれない。

 直感で判断して何が悪いのか。これは「自分の直感」ではなく「他人の直感」というものを想定すると実によくわかる。たとえば配偶者がフリーマーケットで小汚い壷を買ってきたとして、磨いて床の間に置いたりしている。どうみても安っぽいし、そのうえかさばるばかりで目障りである。どうしてこんなものを買ってきたのか、理由を尋ねたあなたに、その配偶者はこう答える。
「いや、理由っていうか、直感だよ」
 そんな直感は壷に叩き込んで燃えないゴミに捨ててしまえ、と誰でも思うのではないか。ここで言いたいことは、自分の直感だって他人からはそのように見られるはずだ、ということであって、このことはぜひ覚えておきたい。「他人の直感は腹立たしい」というこれは原理である。ついでに言うと「他人が占いを気にするのも腹立たしい」というのも原理である。

 さて、にもかかわらず直感に頼らざるを得ない場面というのは、人生においてはやはりあるものである。溺れる者は直感でもつかむと言ってもいいが、最悪なのは何もしないことであり、何でもいいから決断しないよりはマシというような状況はある。ところで、ここでよく考えてみれば「決断しないよりはマシ」と判断すること、それそのものが実は直感的な判断以外の何者でもない。実は何も決断しないほうがマシだったのかもしれないがそうではないと判断したその根拠は、強いて言えば直感であり、したがって上は自己撞着的で、何も証明してはいないのである。

 ああそうか、とここで納得してしまうと話が続かないので、慌てて取り消す。そんなことを考え始めるときりがないし人生は有限なので、まあいいことにする。ではどういう状況がそうなのか、直感的には明らかだろう。たとえば、もうすぐ新幹線の時間になるが、車内で読む本がなにもなく、このままではビールを呑んで昼寝をするくらいしかすることがない、というような場合である。ここでは何か決断をすべきである。読むに値する本を、この目の前の小さな書店から直感的に探し出さねばならないのである。

 私にとっては「まぐれ」はそういう本であり、そういう経緯でもって、私が購入して自分のものとした本である。ナシーム・ニコラス・タレブという人が書いたもので「投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」というサブタイトルがついている。ハードカバーで二千円もする。ダイヤモンド社という、以前なにかここにたいへんいけずなことを私が書いたことがあるような気がする出版社から発売されている。

 これを駅の本屋さんで見つけたとき、私の直感はこうささやいた。これは面白そうだと。少なくとも外れはなさそうだと。これは直感的に思うのだが、本を選ぶ上で、読むべき本として直感が選ぶ本は、自分が今まで思っていたことを肯定してくれるような内容のものが多い気がする。自分の常識を覆されたり、自分と反対の意見を持つ人の本には手が出ないわけで、これは直感のいけない面の一つである。つまり、私は「投資家はもしかして運だけで世の中渡っていってるのじゃないか」と思っているということを意味するが、えー、だいたいそう思っています。すいません。

 ともあれ、そういうわけで私は直感に従い、自分の意見に合いそうな本を選んで買った。実に退嬰的だが、人生論理的にばかり生きられるわけではなくてたとえば一緒に買ったこのビールと貝柱のおつまみはまったく論理的ではない。だからいいのだ読むのだと読んだ。それで、この本が実際どうであったかは、実は既に以前ミクシィで書評として書いたものがある。ちょっと長いが再録してみよう。こんな感じである。

 私がまだ大学生で、毎晩たった一人で寝ていた頃、大阪のローカルな深夜番組で「パペポTV」というものがありました。上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶が舞台に出てきて一時間会話をする、というそれだけの番組なのですが、私は毎週これを楽しみにしていたのです。特に、今私がこうであるところの「ものの見方」の多くをここから学んだような気がします。「戦争のことを笑いにするのは不謹慎だと言われるが、そんなことを言えば戦争をしているやつらが一番不謹慎だ」というようなことですね(余談ですが、時期から考えて、たぶんこれは湾岸戦争のことでしょう)。

 この番組においては、シナリオのようなものはどうやら本当にないらしく、話はあっちに行ったりこっちに行ったり、主題もなにもないのですが、それだけに見ていて「あ、その話が聞きたかったのに」と思うことが何度かありました。二人のうち一方(たいてい上岡龍太郎)が何か興味深そうなことを思いついて、言いかけるのですが、そこでふと話が横道にそれます。そちらのほうを話しているうちに話題に花が咲いて、戻ってこないまま、番組が終わってしまうのです。

 この本は、面白いのですが、どうも上のような「そのまま忘れる」というパターンが多いような気がしました。掘り下げが徹底していないというか、かゆいところに手が届いて、あ、と思った瞬間に他のところをかきはじめるというか。あとでここに戻ってくるのだろうと思っていたら決して戻ってこなかったりとか。エッセイですから、まあこれでいいのだろうと思いますが、どうも、パペポのことを思い出して、しかたがなかったことでした。

 ところで、パペポTVには最後に視聴者からのはがきの紹介コーナーがあって、私と同じことを思ってはがきを出した人のお便りが紹介されていたことがありました。上岡さん、途中でどこかに行っちゃったあの話の続きをお願いですから教えてください、というような。こういうときに、素直に続きを話すような人ではまあないのですが、あの続きはそんなに面白くありません、忘れるくらいだから大した話ではありません、というようなことを、言われていたと思います。

 まあ、そういうことかもしれません。

 ほめているんだかけなしているんだかわからないが、一言で書くと「ビミョー」という感じであった。まあ、直感のすることであるから、そんなものであろう。少なくとも「これならビールを飲んで寝ていたほうがマシ」というよりは、もっとずっと面白い本でした。ありがとうございました。

 さて、話はここで終わるわけではない。上でも書いたが、この本はハードカバーである。二千円もするハードカバーの本を買って感想が「ビミョー」になるような、そんな直感は本と一緒にブックオフに売り飛ばして来い、と配偶者に怒られそうだが、ハードカバーの通念どおり、けっこう重い。鞄に入れるとずっしりと重くなるくらいの差があるのだが、実はこの本、出張から持ち帰ってまだ読みきれず、会社に持っていって昼休みに読んだ。そういうことをすると、この重い本を通勤で持って行ったり帰ったりしなければならないわけで、ハードカバーはその点でもよくない。よくないが読みきらないともったいないし面白くないかというと決してそんなことはないので、むしろどちらかといえば喜々として会社に持っていってしまったわけである。

 読み終わったのは、何日目かの昼休みのことであった。あとは、家に持って帰って本棚にしまっておくことになる。ところが偶然、その日はわりあい荷物が重くて、重いこの本を持って帰るのに、少しためらいを覚えた。仮にまだ読み終わっておらず、帰りの電車の中で読むということになればそれでも持って帰るのはやぶさかではないのだが、本というものは、まあ、一通り読んでしまうとその自分の中での価値は若干低下するのはやむをえない。というわけで、会社の自分の机の引き出しにしまって、その日は帰ったわけである。

 一週間ほどがこうして無為に過ぎる。と、偉そうに書いてみたが、実は忘れていた。あるとき、会社の引き出しを整理していてこの本を見つけて、あ、と思ったわけである。忘れていた。その日は雨で比較的荷物も多かったのだが、このまま置いておくと、これまでの経緯からしていつまでもこの本はここに残るだろうという予感がしたので、重いが、鞄に入れて、持って帰ることにした。上に書いたように、この本に関する私の興味は「腹いっぱいのときに見るカレーパン」並に低下しているが、鞄に入れておけば、忘れるということはない。

 ところが、興味が低下するにもほどがあるのだった。実は、この本のことを次に意識したのは、それから二日くらい経った会社のことで、鞄にこの本が入っていることに気づいたときの衝撃を、少し想像して欲しい。一日忘れていただけではない。本を持って帰って、次の日会社に来て、また帰って、さらに次の日会社に来て、ようやく鞄の中にこの「まぐれ」が入っていることに気づいたのだ。荷物が重いと思わないではなかったのだが、思ったらもう少し、なにかちゃんと手を打ったらどうなのか。こういう人間が「変だと思ったんですよ」などと言いながら原発を暴走させたりするのである。

 自分のバカさ加減にすっかりくたびれたので、その日は「まぐれ」は会社に置いて帰った。しかし、そうしていても、当たり前だが問題は解決しない。数日後、梅雨の中休みで傘もいらない、荷物も少ないタイミングを見計らって、もう一度持って帰った。帰りの電車の中で少し読み返した。レビューに書いたことと、同じようなことをまた思った。

 そして、週が明けてこの月曜の朝。何が起こったか。なにが起こったかといって、会場の小学生はみんな私に向かって「大西ーっ、鞄の中、なかーっ」と大声で叫んでいると思うが、そうなのだ。会社に着いてああ重かった月曜は鞄が重いなあ、と鞄を開けた私の目に飛び込んできたものこそ「まぐれ」の文字だったのである。

 私は思う。直感を信頼して本を買ったのがまずよくなかった。私の直感など、パンに挟んで犬にでも食わせてやればよかったのだ。そして、本代に対して(精神的に)少しでも元を取るべくレビューを書いたりしたのもよくなかった。ああして批判がましいことを書くことで誰が得をするのか。出版社はいい顔をしないし、既に読んだ人もいい気分にはならない。賭けてもいいが、著者のナシームさんがこれを読んで、ああそうか次はじゃあこう書こうなどと思うことは絶対にないのである。あとは付け足しで、会社で読み終わった直後に家に持って帰らなかったのも最悪な決断だったが、その後本を取り出すのを忘れたのは、上のさまざまに比べれば、むしろ大したことない過ちだったと言える。

 反省はした。しかし、現実としてこの本は今、会社の机の引き出しに入っているのである。これは罰だと思う。上のことすべてに対する罰であり、そしてそのことが、直感で本を買う癖をやめない限り、私をさいなみ続けることだろう。いっそ、会社の図書室の奥に置いてきたらどうだろうと最近思ったりしている。


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