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 主人公は基本的に平和主義者で、叩かれても蹴られてもニコニコしている。ところが、そんなかれにもどうしてもゆずれない一線はあって、それは「親のことを馬鹿にされた」でもいいし「敵が女性に手を上げた」でもいいし「髪型を笑われた」とか「大切にとっておいたシュークリームを食べられた」でもいいし、まあその他そういったこと何でもいいのだが、なにかひとつこだわりがある。それでもって、主人公が怒らないのをいいことに、調子に乗った敵はうかうかと、最終的にその一線を踏み越える。そして、激怒した主人公は宣言するのである。お前はやってはいけないことをした、と。

 どうも、そういう場面を思い描いている気がする。というのはつまり、私の人生の半分くらいの時間において目の前にある機械、パソコンというものに対して、私が最終的に怒るときには、ということである。我慢して、我慢して、次も我慢して、その次も我慢して、それなのに、わあまたやられた、というところで、こう思うのである。
「お前はやってはいけないことをした」
 と。そして、激怒した私が本当の力を発揮するのだ。怒りで覚醒した《能力》によってパソコンを、もうぼっこぼっこに叩きのめすのである。パソコンは壊れるだけではなく生きたままなにか岩みたいなものに変形させられてしまう。岩みたいなパソコンは路傍の岩としての今後の人生を、私を怒らせたことを後悔しながら過ごすことになるのである。

 実際にはそんなことはないのであって、私もそんなことはしないし、パソコンだってそこまでのことを私にしたわけではない。そもそも、パソコンが私にできることはたかが知れている。私のプライドを踏みにじることはおろか、とっておいたシュークリームを勝手に食べちゃうことだって、この哀れな機械にはできない相談なのだ。なにしろ機械だから。

 それなのに、どうしてだかわからないが、こいつと付き合っていて「我慢してきたがそれも今日で終わりだ」と思うことが多い気がする。どうもパソコンあるいはコンピューターという機械にはそういう人間を怒らせるところがあって、それはこの種の機械特有の性質ではないかと思う。草刈機や全自動洗濯機、押すと泡が出てくるハンドソープのボトルといったものにも人間は怒ることができるが、パソコンに対する怒りはより深い気がする。たとえば趣味に合わなかったCDや小説、映画といったものよりも、できの悪いゲームに対する怒りのほうがずっと深い気がするのだ。「くそゲー」などという呼称があるのは、考えてみればゲームだけではないか。

 まあ、しかしだからといって私の怒りが正当化されるわけではない、とは言える。物言わぬパソコンに一人で怒っているというのは、控えめに言ってもたいへんよくないことであり、ぶっちゃけて言えば人間としてちょっとどうかと思われる。ひょっとして、もしもこの世に「最後に切れる主人公」を描いたまんが等が存在していなければ、私も気づかずにいつまでも我慢しているところではないかと、思ったりもするのだ。最後まで我慢する主人公ばっかりだったら、そんな物語はウケないのではないかとも思うが、正義のヒーローを描いたテレビ番組を見たあとは、どうもうちの子が暴力的になっている気がするのだが、ちょうどそれと同じである。

 ゴーオンジャーはどうでもよい。話を元に戻して、私がパソコンの何に切れたのかというと、実に簡単なことであり、日本語変換の効率が悪いという、そのことである。私は人生の半分くらいをパソコンの前で過ごしているが、そのパソコンの前で過ごす時間のさらに半分くらいは、何らかの文章を入力していると言える。まあざっと言えばそうであり、さらにざっと言えば、あと半分はぼーっとよそのウェブサイトを見ている。そして、私の場合文章はたいてい日本語で、だから入力したかなを漢字に変換する、いわゆるかな漢字変換の効率は人生においてそれなりに重要な問題なのである。

 パソコンの変換効率が悪いというのは、思い返してみれば実はもともと分かりきったことであった。だいたい、人間でもそうで、聞き間違い勘違いということはある。たとえば科学と化学のような、意味がよく似た発音が同じ言葉があるのが悪いのであり、これは日本語という言語の設計上の問題であり、それにパソコンは合わせないといけないのだから大変だ。そういうものであって、長いことそんなことを一度も書いていないのにいきなり「巧言令色少なし仁」と書いて変換して変換しないと言って怒るのはどう考えても間違っているし、私だって、こんなのには怒らないのである。ではどういう場合に怒るのかというと、あるのだ。動作にまったく納得がいかない場合が。

 たとえば「大西科学」と書く。これは私のウェブサイトの名前であって、最近はペンネームにもしているので、けっこう書く機会があるのだが、初めて使うパソコンで、おおにしかがく、と書いて変換してぱっと「大西科学」が出てくる確率は、まあ半分くらいではないかと思う。他の場合は、「大西化学」となると思うが、ずっと前から、パソコンの日本語変換ソフトにおいては、ぽんぽんと候補を出して確定して、と正しく「大西科学」と入力すれば、次からはちゃんと「大西科学」が出てくるようなしくみになっている。学習という、けっこう大仰な名前で呼ばれる機能であり、だからしていちいち大西化学を変換しなおさなくてもいいのである。実に便利ではないか。化学万歳。いや間違えた。科学万歳。

 ところがうまくいかないのである。

 どうしてだか、本当にわからないのだが、あるとき私の使っていたパソコン(マックOSについてくることえりというソフト)が私の名前を忘れた。おおにしかがく、と何度入れても、次に変換したらまず「化学」のほうが出てくるようになってしまったのだ。これはたいへん奇妙なことで、もしも私にとって「大西化学」あるいは「化学」という単語のほうがよく使うしよく変換する、というならわからないでもないのだが、そんなこともないので本当にわからない。いや、正直を言えば、一回くらいはためしにあえてそう書いたことがないではないだろうと思う。思うので、よけいに腹が立つのだが、つまりその一回を学習して、他のすべてを忘れやがったのであるこの機械は。私との思い出のすべてを忘れ、たった一度の過ちをすべてと考えたこの機械は、たちの悪い冗談のようにあるいは無理やり定着させたあだ名のように、私のことを化学と呼び始めたのである。私はちょっと思ったのだが、海外のドラマでよくそういうのがある。

「そうだよねジョーブ君」
「いえ、ジョーンズです」
「ああそうだった。すまんねジョッシュ君」
「ジョーンズですってば」
「本当にすまんなジョゼフ君」
「ジョーンズ」

 そんな感じなのである。実際、間違えて変換されると私のほうでわざわざ変換してやる必要があるので、この「ジョーンズですってば」をやっている気分が味わえる。こういうのは、どう考えたらいいだろう。人間が間違うのはいいが、こういう場面でこそ、パソコンは断じて間違ってはいけない気がする。というよりもむしろ、こういう間違いをしないというのが、パソコンの唯一いいところなのではないか。言い換えるとこう思っている。よりにもよって主人の名前を間違うとは何事かこのパソコン野郎。

 と思って、それだけではまだ切れていない。大人気ないと思いながら何度かは訂正するのである。ところが、何度やっても化学が出てくると、だんだん「こっちはこんなに我慢しているのに」という気になってくる。これでは埒が明かないと思って設定パネルを呼び出し、いろいろな調整つまみをあっちに回したりこっちに回したり、試してはみているのだ。そうして、かすかな望みに賭けて、もう一度「おおにしかがく」と入れて、変換するとだ。

 お前はやってはいけないことをした。

 という気がしてくるではないか。これが、私がついに「ことえり」を放棄して、「イージーブリッジ」という伝統ある日本語変換ソフトに乗り換えた(昔使っていたので正確には「戻ってきた」)理由である。結果としては大西科学はもう二度と変換間違いをすることはなく、それでいいのだが、買ってしばらくしてソフトの製造元から「日本語変換プログラムから撤退します」というメールが来たのはどういう因果応報かと思った。開発元が撤退してもうバージョンアップは行いません、ということになったわけだが、プログラム自体は問題なく使えるのに、なんとなく、とてつもない損をしたような気がするではないか。あと「それは辞書に登録すればいいのでは」と指摘を受けたのも痛かった。本当にそうでした。

 さて、話がこれで終わらない。実は私は、ウィンドウズのパソコンも使っているのだが、これが最近「半角に変換する」というのを覚えたのである。たとえば「ジャッキー大西」と入力しようとして「じゃっきーおおにし」と書いて変換すると、どうしたわけか、ジャッキーのところが半角カナになる。これは理由ははっきりしていて、あるとき一度、半角で入力する必要があったので、したのだ。したのだが、それをいつまでも覚えている理由にはならない。それ以後も何度もジャッキーと書いているし変換しているのである。どうして「半角」だけをそんなにしつこくいつまでも覚えているのだ。

 いろいろ試した結果「じゃっきーおおにし」と一度に入力して変換した場合だけ「ジャッキー」が半角になるということがわかった。どうやらジャッキーという単語は後ろにある大西との関係性において半角に変換すべきものである、ということになっているらしいのだが、それはいったいどこでどうもとに戻したらいいのか。消してジャッキーだけ書き直すのではなく、その部分だけを全角に変換しなおして確定すれば普通はこのような学習は消えてなくなるはずだが、何度そうやっても、次に入力すると半角になるのである。

 考えてみると、パソコンの持つ正の力であるところの学習、この「学習」というものがあるからこそ、かえって人は何度も我慢をし、そして最後には我慢の緒が切れるのではないか。我慢に我慢を重ねて、それでも裏切られたとき、最高に温厚な人だと自分のことを思っている私のような人間の、心の中の何かが切れるのだ。悪いまんがに毒されていなければ気がつかずまだまだ我慢していた可能性もあるが、えー、とにかく、パソコンに対して、こうして切れている日々です。短気ですいません。

 短気で悪かったが、ではどうするか。エートックみたいなのを買ってくるというのも一つの手だ。しかし、考えてみればこれはどう考えてもメインマシンではなく、これにそんな投資をするのも間違っているのである。ユーザー辞書を眺めて、あれこれ設定をいじって、それでも直らない。こういうときはあれか。システムの再インストールをしたらええのか。わしみたいな機械オンチはそうしたらええのんかっ。

 と本気で切れそうになったところで、何をどうしたのか自分でもよくわからないが、あるとき突然に直った。なにかをリセットしたことになっているらしく、きれいに直ったのである。直ったのはよかったが、そのぶん、私の名前も住所も大西科学の科学が化学ではなく科学であるということも、この機械ときたら全部きれいに忘れてしまってもう一度教えなければならなかった。どうも、こんな機械は岩にでもなればいいと本気で思うことがある。


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