事故はいつも明日起きる このエントリーを含むはてなブックマーク

 われわれの身の回りにあるあたりまえの機械というものは、それがなんであれ、古くなるにつれて少しずつ故障しやすくなるものである。これは常識的に考えてもそのとおりで、たとえば三年前に買った車と三十年前に買った車があったとして、そのどちらかを使って東京から大阪までドライブしたとしてその間にどちらの車が故障しやすいかというと、一般的にはやはり、三十年前に買った車のほうだと言えるだろう。パソコンでもそうだし、冷蔵庫でもテレビでも電球でもそうだ。初期不良が現れて出尽くす最初の一定期間を除くと、ある単位運転時間あたりの故障率は時間の経過とともに少しずつ上がってゆくはずである。

 だから、飛行場に着いて、これから乗る飛行機が駐機場に入ってくるのを見て、それが何十年も前に就役したよぼよぼのジャンボジェットだということを知ったとしたら、本来、それについて何か一言あってしかるべきである。実際にはあまりそういうことが気にされないのは、上の古くなることによる故障率の増加効果がけっこうわずかで、他のもっとずっと大きな要因、たとえば初期不良や整備不良などの人的なミスにかき消されてしまうせいではないかと思う。特に初期不良(設計不良を含む)が事故の要因として大きい場合「おろしたての新品より、むしろある程度枯れた機体のほうが安心」と思えるのは確かで、これは理にかなっている。

 それはさておき、こういう「時間に伴う故障率の増加」ということが起きるのは、機械が一般に、複雑なさまざまな部分から成り立つものであり、またそれらが少しずつ磨耗するなどして壊れてゆくことによるものであるといえる。仮に機械がいっさい磨耗しない材料でできていたり、内部構造がない単純な存在であったりする場合には、故障率はほとんど増加しないし、ある意味で古くならないとさえ言える。たとえば「茶碗」などというものは普通の使い方をしている限り何百年だって使えるわけだが、それはこの事情によるものだろう。壊れるとしたらたまたま落として壊れるくらいだろうが、落として壊す確率は、茶碗が古かろうが新しかろうが、同じはずである(まあざっといえば)。

 この「内部構造がなく磨耗しない」方面で究極的な存在なのが素粒子や原子核で、こういうものには古いも新しいもない。安定なもの以外は一定の寿命を経て他の素粒子や原子核に崩壊するわけだが、じっと見ていたら古くなって、崩壊の可能性がだんだん増してくるわけではなく、今日できたものも、三億年前からここにあるものも、次の一秒間に崩壊する確率は同じである。茶碗を今日落とすか、明日落とすかは同じ確率である、というのに似ている。

 さて、こういう「時間あたりの崩壊確率が一定」というものが、実際にはいつ崩壊するかということを考える。たとえば四百個の茶碗があったとして、これを全校四百人の小学生児童に配って昼飯に使う。この小学校の児童はたいへん粗暴であり、また茶碗は少しでも乱暴に扱うとすぐに壊れる粗悪品である。昼食の間に、実にその半分、二〇〇個が壊れるとする。素粒子の例で言えば半減期が一日、ということに相当するだろう。二日目が終わると一〇〇個、三日目が終わると五〇個に減っている(この際、茶碗をあてがわれない児童がどうやって茶を飲むかはわからないが、家からプラスチックの茶碗でも持ってくるのだろう)。ここでわかることは、このように問題を単純化した場合、どの茶碗をとってみても、その日に壊れる確率は半分半分であり、古い茶碗のほうが壊れやすいということはない、ということである。逆に言えば、毎日壊れる確率が増す(あるいは減る)わけではなくて、ずーっと一定である場合に、数は半分、半分と等比級数的に減ってゆくわけである。

 ここまではまあ、当たり前の話であると言えるかもしれない。それを言えばこの話全体が百パーセント当たり前でできているわけだが、ではここで、四百個の茶碗を見るのではなく、ある特別なしるしをつけた、一個の茶碗に注目する。この茶碗は、いまここにこうして立派に茶碗として存在しているが、明日からはとある児童の手にわたり、反省もなく乱暴に扱われる。これはいったいいつまでもつだろう。これからの一日いちにちを見ていった場合、どの一日に壊れる可能性がもっとも高いと考えるべきだろうか。簡単である。
 この茶碗が1日目に壊れる確率は、1/2である。
 この茶碗が2日目に壊れる確率は、1/4である。
 この茶碗が3日目に壊れる確率は、1/8である。
 この茶碗が4日目に壊れる確率は、1/16である。
 この茶碗が5日目に壊れる確率は、1/32である。
……
 これは最初の例の、四百個のうち残っている茶碗の割合と、まったく同じである(そもそも確率とはそういうものだ)。この茶碗の平均寿命は約1.44日という短さでありこれではいくら稼いでも子供にみんな持っていかれてしまうが、それよりもここで言いたいことは、
「茶碗がいつ壊れるかを考えるとき、もっとも壊れやすいと言えるのは『一日目』である」
 ということである。

 つまり、他のどの一日をとっても、最初の一日目よりも壊れる確率が低い。カレンダーを出してきて、どの日に壊れるか賭けをしよう、と持ちかけられた場合、明日に賭けるのがもっとも勝つ確率が高くなる。しるしのついた茶碗は、一日目に燃えないゴミに化する確率がもっとも高いことだろう。

 実は、このことは、あらゆる寿命を持つ、あらゆる素粒子や茶碗について成り立つ真理である。上は半減期を一日としたが、それほど粗暴でない児童であるとかしてこれが一年であろうと、また十年であろうと、最初の一日における崩壊確率が、他のすべての日に比べてもっとも崩壊する可能性が高いことは変わらない。この議論は「茶碗は劣化せず、一日目に生き残った茶碗は二日目においても同じ確率で壊れる」とした場合で、対象が劣化し、故障確率が増すものである場合には成り立たないが、それでも旅客機のように十分寿命が長い場合の、その寿命を迎えるはるか前の期間について考える場合には、これはよい精度で成り立つと言える(航空機の場合は寿命を迎える前に整備を受け部品が交換されるので、なおさらである)。

 これは相当に直感に反する結論である。たとえば十億年の半減期を持つ原子核が明日崩壊する確率がもっとも高いというのは、妙な話に思えるからだ。やっぱり十億年目くらいがもっとも確率が高くなるのではないかと思える。しかしこれは、たとえば十億年を構成する約三千六百五十億日の、一日いちにちを全部、個々に見ていった場合、どの一日がもっとも崩壊確率が高いか、という話なのである。一日(のうちいつか)対十億年(のうちいつか)ではなく、ある一日対ある一日の比較で、チャンピオンは明日であるということなのだ。この場合、第一日目は、365,242,200,000日目近辺の一日と比べて、崩壊確率は二倍ある(当たり前のことだが)。

 われわれは、こと事故ということについていえば、明日それに遭う可能性がもっとも高い。その増加率はほんのわずかであるとしても、明後日よりも来年の今日よりも、危ないのは明日なのだ。そしてこれが「一日いちにちを大切に生きよう」という言葉が本当に意味することの、ええと、そのひとつくらいには数えていいのではないかと思ったりもするのである。


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