以前ここに「もうこのへんでいいよ」と言ってくれない相手とはつきあいにくい、ということを書いた。たとえば「ご先祖様の供養」などが最たるものだが、どこまでやればオッケーという指標が特にない場合「供養をちゃんとしていませんね」と誰かから指摘されたとしても、原理上、即座には否定できないのである、あるよ、という話である。これが「故郷のお母さんを大事にしていませんね」「勉強していませんね」なら別である。というのも、母親は、大事にされていなかったら文句を言うであろうからで、なんならちょっと電話をかけて「なあお母さん、自分が大事にされてないと思う?」と聞いてみることもできる。毎日遊び暮らしているっぽい中学生が実際に勉強していないかどうかは、次の期末試験でわかるだろう。しかし、これがご先祖様になると話が違う。いいとも悪いとも言ってくれないし「七二点」と書いた紙もくれないので、そこが難しいところである。
これは余談なのだが、こういう場合「お前らはみんな間違っているのだ」という話のしかたをするのが、洋の東西を問わず常套手段となっているのはちょっと面白い。相手に対して優位に立つためではないかと思われるが、人間は生きているだけですべて罪人であるというような、たとえば「普通に生活しているだけで人間は環境を破壊している」というような話のもってゆきかたである。どうもこんなふうに言われるとその通りなので恐れ入るしかないのだが、考えてみれば環境というものも「もうこのへんでいいよ」とは言ってくれない存在の一つではないだろうか。
さて、科学の基本は実験であるが、実験の本質として「何度もやってみる」というものがある。試してみて、結果を得る。望ましい結果を得るように工夫する。一回ではたまたまかもしれないので何度もやる。その際、条件を少しずつ変えてみて、それぞれの結果を比較するというのもいいだろう。うまくいくときといかないときで何が違うのかを推定して、また実験をやってみて確かめる。こうして人間は進歩してゆくのだが、逆にこういう実験ができないことについては、人間の進歩は実にゆるやかである。
つまり、そういう物事の一つではないかと思うのである。マークシートのことだ。
マークシートとはなにか。テストのときに、たまに出てくる硬めのカードだ。問題を解く。解いた結果を、ふつうやるようにカッコの中に書き込むのではなく、このカードにある、印の中を塗る。[1]と書いてある[と]の間を四角く塗ったり、楕円形の中に数字が書いてあるその楕円形を楕円形に塗ったりする。塗るのはHBの鉛筆でなければならず、シャープペンシルはもちろんボールペンでなんか絶対に塗ってはいけない。はみ出してはいけないし薄くてもいけない。濃く隙間なく、楕円なら楕円のかたちにぴっちりごちごちと塗るのである。間違えた時は完全に消さねばならないし、消しゴムのかすは完全に取り除かねばならない。ときどき消えにくいカードがあって泣きそうになったりしながら心を込めて消す。そして、いつの間にか一行ずれていたりしたらたいへんなのでよくよく確かめて塗る。
今までの人生において、私はこのマークシートにひたすら仕えてきた。そんなつもりはなかったのだが、実はそうだったということがわかった。「シャープペンでも大丈夫だよなフツウ」とか「ここまで一生懸命塗らなくてもよくね?」などと思わなかったと言えば嘘になるのだが、実際にそういう気の抜き方をして、試験の点数が悪くなったら困るではないか。それでなくても間違うときは間違うのに、こんなことで減点されるのは絶対に嫌だ。中学校でも高校でも大学でも大学院でも社会人になってからも、礼を尽くし、試験が終わったら手が痛くなるくらい必死のパッチで塗ってきたのである。これが「仕える」ということでなくして、なんだというのか。
つくづく考えれば無理もない。試験の場合「まあこんなもんでいいだろう」「これくらいで大丈夫ではないか」という実験をすることが、非常に難しいのである。仮に手元にマークシート読み取り装置とカードがたくさんあって、これを自由に使ってよし、という機会があれば別だ。試す機械と機会があるなら、いいかげんにはみ出して塗ってみたり赤鉛筆で塗ってみたり、楕円に塗るかわりにバッテンで印をつけるだけにしてみたり、いろいろやってみて、これは大丈夫、これは駄目、と経験を積むことができる。しかしそうではないのでどうにもならない。私がマークシートを試すのは試験のときだけであり、試験は人情として高い点数を取りたいので、いいかげんに塗ってみる、などという勇気は出ない。しかも、通常マークシートは返却されないのであり「ここのところは機械で読めませんでした」というようなフィードバックが受験生に戻ってくるということはない。それがあればまだいいと思うのだが、普通は「七二点」というような点数を書いた紙が返ってくるだけで、それどころか悪くすると「合格」「不合格」と書いた紙が返ってくるだけである。ご先祖様のことを思うと試験のほうが何か返ってくるだけマシと言えるが、どこの塗り方がよかったか悪かったか、というようなことについて、経験値がたまらないのは同じである。
そういうわけで、貴重な試験時間のある程度おおきな部分を、私はしかたがないのでマークシートを塗るという原始的な行為にささげてきたわけである。考えてみれば、私がマークシート読み取り装置を作るとして、けっこういい加減に塗っても大丈夫なように作るはずである。わずかに薄かったり、わずかにはみ出していたりするのでいちいち読み取りエラーを起こしていたら、それはどちらかといえば悪いのは機械である、ということになる。むしろ楕円の中を塗るかわりにバッテンを書いたって読めるくらいでなければいい読み取り装置とは言えない。理性はそう言っているのに、実験できないので確かめられないのだ。
それがすべて変わった。山梨県は富士吉田市。富士山のふもとにあるこの街にある「富士山レーダードーム館」という展示館である。以前富士山の山頂にあった気象レーダーを持って下りてきて、それを据えつけて見られるようにしてあるのだが、ここに、たぶん子供向けだと思うが「気象観測クイズ」という展示があるのだ。マークシートを一枚取る。壁に十問ほど問題が書いてあるので、その答えを展示の中から探す。全部答えたら、それを機械に読み込ませると、採点されて、結果が印刷されて出てくる、というものである。「気象観測員認定書」というものがもらえる。
ここに行くと、私の子供たちはなんと言うか。やりたいと言うのである。しかも、一人につき一枚、どうしてもうやりたいという。やりたいと言ったってうちの子は6歳4歳2歳で、6歳の娘はまあいいとしても4歳の息子は自分の名前をなんとかぎりぎり書ける程度、2歳の末っ子に至っては紙に殴り書いたぐるぐるとした渦巻きというかもつれた紐のようなものを「ゴーオンジャー」であると主張するほどのものである。お前らにマークシートができるかあっ。
と思ったがやらせてみた。問題すら読めないくせに、一人一枚書く、という。何番を塗ればいいか、塗るから教えてくれ、という。それはすでに展示の本質を外している、と私は強く思ったが、断るとどうなるかはわかっている。床に仰向けになって「どっぎゃーん」という声で泣くのだ。特に2歳児がそうで、何度もどっぎゃーんと泣いて道行く人の注目を集めている。これくらいのことでいちいちそれをやっていたら、マクドナルドのコーヒーが熱くて舌をやけどしたなどという事態になったらもはや法廷に訴える以外の道はないではないかと思うくらい、ささいなことで仰向けに泣く。マークシートくらい、やらせてやろうではないか。問題も解いてやり、ここを塗れと教えてやろうではないか。
結果としてどうなったか。できたものは、マークシートというものを徹底的に馬鹿にした人がマークシートというものはこういう馬鹿なものです、ということを主張したいがために作ったような紙切れになった。かろうじてマークの周辺が黒くぐるぐるになっているだけで、塗られているというような状態ではない。さすがに親として多少修正を入れたが、それでも「マーク周辺をぐるぐる塗る」を「マーク周辺をぐつぐつ塗る」程度までしか改善しなかった。しかしまあ、いいかなと思ったのだ。読み取りエラーが出ても、それも人生ではないか。この子のこれからのマークシート人生が、こういう始まり方をするのもまたよいことではないかこれは試験ではないのだし。
置いてある機械に読み取らせてみた。マークシートが、しゅぱ、と音をたてて機械に吸い込まれたかと思うと、「正解数10問(10問中)」と書いた紙が、がー、と印刷されて出てきた。
私は思った。まことに、実験してみないとわからないこと、というものはあるものである。