「サイゼリア」というのはファミリーレストランの名前である。イタリアレストラン的なファミレスであって、ドリアとかピザとかスパゲティがメニューにある。というより、もしかしたらむしろ「とんかつ御膳」や「お子さまうどん」がないファミレス、というべきかもしれないが、とにかくそういうものである。別にご機嫌を取ろうと思って書くのではないが、私の人生においてサイゼリアにはおおむねよい思い出しかなく、これは他のファミリーレストランになにかしら悪い思い出があることと比べて特筆すべきことと言ってよい。だいたい、コマーシャルを見たりメニューを見た限りにおいては実においしそうなのに、いざ料理が来てみると心底(本当に心底)がっかりするのは、いったいなぜなのだろうか。こちらを不快にさせるためにやってるのではないかと思うくらいなのだが、本当になにがいけないのか。貧乏がいけないとでもいうのか。これが格差社会の現実だとでもいうのか。
思わず興奮してしまったが、これはサイゼリアのことではなく他の某ファミレスのことである。とにかくその点においてサイゼリアはいい。安いし、なんだかおいしいのだ。それに一度など、泣いて暴れるのでしかたなく頼んだお子様セットをこともあろうに「もういらない」などと言って残しくさった私の子供たちのために、気前よく立派なドギーバッグ(お持ち帰り用の容器)をくれたことがあった。私はサイゼリアに、一生ついてゆくつもりである。
そのサイゼリアが、メラミンで困っているらしい。と書いて意味がわかるのはせいぜい本年度中ではないかと思うので注釈を入れておくが、提供していたピザからメラミンが検出されたらしいのだ。メラミンそれ自体よりもむしろ返金に関しずるをした高校生がいて、というようなことで後世に記憶されそうな気がするが、本当の問題はやはりメラミンである。どうもこのメラミンというもの、名前を聞いただけでは怖いというよりはむしろ懐かしい気分になる物質名で、そのへんが「ジクロルボス」とか「メタミドホス」とちょっと違うところである。もちろん中国では赤ちゃんがこのせいで大変なので、やっぱり大変だ。
ではどの程度大変なのか。サイゼリアのピザを食べたら死ぬのか。そうではない。たくさん食べたら確かに大変なのだが、これは量の問題であり、普通の人が普通に食べるくらいでは、何の問題もない量である。それはそうで、健康被害が出たという報告はなく、メラミンが話題になっているので調べたら果たして検出された、というような話だと思う。してみると検出されたとて識閾以上閾値以下、聞いても気分が悪くなるだけでなんのいいこともないので、もしかしたらいっそ言わぬが花ではないかと思うが、やはり広報しなければならないのがコンプライアンスというものである。どうでもいいが「コンプライアンス」は名前を聞いて懐かしい気分になる言葉ではない。
問題にしたいのは、実はサイゼリアそのものではなく、報道である。この件や類似のあれこれに対するテレビや新聞の報道で一度気がつくと気になってしようがないのが「健康への影響はないという」という伝聞口調である。もしもあなたがまだ気がついていなければぜひ注意して見ていてもらいたいが、食品のさまざまな事故、毒性物質の混入を報じるニュースには、あるパターンがある。
1.メーカーが販売した商品に有害物質某が混入していたと発表した。
2.何月何日から何人に販売されていて、回収を発表している。
3.微量なので健康に害はないという。
これだ。この3だ。この「ないという」が気になるのである。なぜ「という」なのか。「ない」で止めておいてはいけないのか。
もちろん、ちょっと考えればわかる通り、ここで断定的なことは書けない。混入の事実や詳細については、少なくともその最初の段階において、新聞社なりテレビ局が自分で調べたことではなく、メーカーの言い分を報じているだけの場合が多い。そうであればここは論理的にも「という」と書かねばならないところである。ただ、そればかりではないと思うのだ。「監視はほとんど一人で行っていたという」とか「玄関の鍵は常に開いていたという」とかならそのとおり取材先の主張なのだということがわかるし、問題はない。ここで考えたいのは、健康被害の文脈で、特に「この濃度の汚染物質は人体に影響するか」という場面でこれが使われる場合、どうかということなのである。
ちょっと上ではあいまいだと思うのでくどく書いておきたい。架空の有害物質ソディウムクロライドが販売したトンカツに0.1ppm含まれていた、とあるメーカーが発表したとする。これは毎日トンカツを二キロずつ一生食べ続けない限り人体に影響はない量であるとされている。ここで「人体に影響はないという」という文章で報じた場合、記事を書いた人が疑っているのはどちらなのか。
(1)販売したトンカツに含まれていた量が0.1ppmだということ。もっと多かったのではないかと疑っている。
(2)0.1ppmのソディウムクロライドが含まれたトンカツは、二キロずつ一生涯食べなければ影響ない、ということを疑っている。
1であれば問題ない。これを発表したのはメーカーであり、当面メーカーの言うことしか情報がないとすれば、これを「という」などと書いて疑うのは当然のことだ。メーカーには少なめに言う動機があるし、消費者は逆にメーカーの少なめな発表によって害をこうむると考えられるからである。しかし、問題はむしろ2について、報道が疑問を呈してるように見えることなのである。0.1ppmのソディウムクロライドは無害。へえ、誰が言ってるんですか。信じられないなあ。
つまり「この物質はこの程度なら健康に影響はない」という研究自体に、報道が信頼を置いていない、ということではないのだろうか。これは何かしら科学的な研究で裏付けられて、政府が認定した基準というものだが、そのどこかで誰かが何かをごまかしていると思っているのであり、信頼できないと思っている。または、こんなものは愚かな人類が足りない知恵で大ざっぱに推定した暫定的な基準であり、あとで「本当は微量でも健康への影響がある」ということが発見されることもありえる、と思っている。
そしてその場合に困るのは「このくらいなら大丈夫」と書いてしまった新聞なりテレビではないのだろうか。だとしたらだ。ここで「という」と書いてしまいたい、その気持ちはとてもよくわかるのだ。たとえそれが客観的な研究によって認められている事実だとしても、そんなことの責任は取れないからだ。「おまえとこの新聞で『影響はない』って書いとったやんけ」と言われたくないからだ。「健康への影響はないんですって。あ、これ私が言ったんじゃないですよ。お店がそう主張しているだけでむしろ私としてはそんなのウソだと思います」と言っていることを示す「という」ではないのか。
そして実は「あとでひっくり返るかもしれない」ということこそ、科学を科学たらしめている重要な要素の一つなのである。科学が言うことにはなんであれ確実なことはない。科学者が本当に誠実なら、何かを訊ねたときに「それは絶対本当です」という返事が来ることはあまりないはずである。この「ある薬品はこれ以下なら無害」という主張が、これまた科学的手法で証明しにくい事柄なのだが、実際には動物実験の結果を日割りにして体重割にして、さらに安全係数を掛けて、これくらいならまあ大丈夫という量を求めて基準値にしているはずである。この、最後の安全係数(何かが間違っていたときに備えてさらに安全サイドに基準を厳しくすること)が通常百くらい取られるという話を聞くと、逆に、自信がないんだなという気がしてくる。これが別の場合、たとえばある建物を建てるとして、これまでの経験からこれくらいの規模ならこれくらいでしょう、と予算を求めたあと、最後に安全のため百倍して請求したら、施主に怒られるに決まっているではないか。
だからそれが「微量なので健康に害はない『という』」という表現になって結実するわけだろう。しかたがないのだが、科学者の誠実さにつけこんで責任を回避しようとしている感じがなくもない。これは、極端に言えば、科学的な手続きとそれによってもたらされた知識を、他人にどう伝えるか、ということが問われているような気がする。しかもそれは、天秤の片方に人間のいのちが乗っている場合どうするかという問題である。不確実なことをどう報じるか。そういえば、科学に証明できないことは他のどんなことによっても証明されないのであって、これは科学的命題によらず報道される事実すべてに関係する事柄であるとは思うが。
一つ解決策として、科学的命題がどの程度信頼されているかを、数字なり言葉で表すといいかもしれない。最近の天気予報(特に週間予報)はどれくらい自信があるかをABCの三段階で表したりしているが、この伝で「という」がどれだけ「という」なのかを示せばどうか、ということである。「質量の起源はヒッグス粒子である」「陽子はクォークからできている」「ソディウムクロライドは0.1ppmであれば無害」の、それぞれがどれだけ信憑性のあることなのか。これをエラーバーつきではっきり報道する必要がある。これは「2008年の阪神はリーグ優勝を逃したという」などとファンが言い出す前に、我々がやっておかねばならないことではないかと思うのである。