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 教育のはじめのほうにおいて、そういうものだと教えられ、丸覚えをしなければならなかった語句や記号が、学んでゆくにつれてあるとき突然、深い理解をともなって納得される、などということが確かにある。
 たとえば微分積分の記号について、関数y=f(x)のfをxについて微分したその導関数はdf/dxと書く。このことは高校の数学で二年生くらいのときに教わるのだが、なぜ分数っぽい書き方なのだか、最初はわからない。f'(x)とか、fの上にドットを書くやりかたもあるが、私の高校では「いいからこう書いとけ」みたいなことを言われてdf/dxと教わった気がする。同様に、y=f(x)のfをxについて積分したものは∫f(x)dxである。なんだかへんなエスやらディーエックスがついてなぜこれが原始関数の意味になるのか、さっぱりわからない。わからないまま、いよいよ変なことになってきたぞと思いながら自分のノートに不器用に筆写するのである。以降、記号の意味はわからないまま三角関数やら対数やらの微積分についてあれこれのテクニックを習い、これらへんな記号にもやっとこ慣れてきたところで、微分方程式(その初歩)を学ぶことになるのだが、そのあたりだろう。唐突に理解するのである。df/dxを形式上割り算とし、一方積分の場合に最後にdxを書くのを形式上掛け算と考えれば実に計算がしやすくなる、ということにだ。いや形式上ではなく、気がついてみれば明らかなことに、実質も割り算なり掛け算なりは行われていて、たとえば位置[m]を時間[s]で微分するdx/dtは速度でありm/sの単位を持っていることがわかる。そのことも考え合わせれば、なるほど、これはf'とかFとか書くかわりに、こう書くべきものだ。

 いや、なにもこのような複雑な例を持ち出す必要はなかった。高校ならぬ小学校の一年生で習う、
 3+7=10
 というときの「=」。等号は、そのあと中学校で数学を学んできた身には「左辺と右辺が等しい」ことをあらわす記号だと思っているわけだが、小学一年生にとっては当然ながらそうではない。義務教育の、少なくともその最初の時点においては、
 3+7=
 というときの「=」は「左側の計算を行ってその結果を右に書け」という記号であると理解される、はずだ。ところが、それがあるとき逆転の感覚を伴って理解されることには、すなわち、今までは等号を、たまたまある狭い意味に使っていたに過ぎないのだということである。等号とは、実はあらゆる方程式を書くときに必要欠くべからざる梃子の支点の役割を果たすものであり、数学の中心と言ってもいい記号である。それは昔やさしくしてくれた自分の祖父が実は日本国の首相であったことを発見するに似た、しかし選ばれた特定の人間だけではなく誰にでも味わうことができる、視点の拡大の感覚である、と言えるかもしれない。

 DAIGOさておき、これと同じことは、やや弱い意味において数学以外の場面でも見出すことができる。たとえば「ありがとう」という言葉。日常の軽いお礼を述べるために使うこの言葉の、その使い方と意味については、われわれはみな物心つかないうちから誰かに教えられて知っているわけだが、それが漢字で書くならば「有難う」であり、そのもとの意味が「在ること自体が困難であること」すなわち「めったに無いこと」であるということを、われわれはかなり後になって知ることになる。これはただそれだけのことだといえばその通りと感じる人も多いかもしれない。しかし、ありがとう、と日常口に出すときに、それが「有難う」であることを心のどこかにとめて、思い出すことができるならば、この国にいる一億数千万人の人間の中からたまたまあなたがいて、そして今自分にこのようなことをしてくれること、その奇跡的な「有難さ」について、思いをはせることもできるのではないだろうか。それはただ言葉として丸覚えをした「ありがとう」にはない感覚かもしれない。

 と。上の段落は、これ全体がためにする「校長先生の講話」的であることは認めなければならないし、また単に「有難う」の字面だけから私が勝手に想像した意味をとうとうと述べているだけであって、言葉のなりたちなどをきちんと調べた上で言っているのではない、という批判を免れることはできない。学園ドラマであった「人という字は人と人が支えあってできている」というのがたぶん真実ではない(本当は人という漢字のなりたちとしては、足を開いて立つ一人の人を描いた文字であろう)というのと同種の批判をこの解釈にもできるわけだが、まあ、それを言えば、「人と人が支えあって」という話が、それが嘘であるからといって、誰かに感動を与えられないというわけではないし、ましてやここから何の教訓も得られないということではない。そのことは昔「カンダツの木の下で」という雑文に書いたことがあるが、おとぎ話にも人は感動し、また教訓を得られるのである。

 であるから、さらに同種のことは「何度言ったらわかるんだ」とか「だって私がどんなにタイピングが速いか知らないでしょう」というような、修辞的慣用的な語句にも言えるかもしれない。これは「お前は何度言ってもわからないな」と他人を叱る言葉であり、「私はタイピングが速いです」という自慢だが、文字通り取れば「あなたがこれを理解するには、私はこれを何度言えばよいのですか」と訊ねているのであり、あるいは「私がどれだけタイピングが速いのかに関して、あなたは知りませんね」と確認しているのである。こちらの場合は真の意味は最初から明らかだが、そういう使い方は通常されないので、普通に「平均すれば5回です」とか「知りません」と応えると、これは一種のギャグになりうる(これがおもしろくはないということは認めるけれども)。

 さて、そういうことで最近思うのだ。思うのだが、私が子供の頃から、どうしようもないおっちゃんが若い娘さんに言う言葉として、
「ねえちゃん、いいケツしてんなあ」
 というものがあった。これはもう、何のための言葉かというとセクシャルにハラスメントするための言葉であって、それ以上の意味はない。つまり、いやがらせである。その女性が好意を持つ、若くて格好いい男の人がいうとまた違うかもしれないが、まあそれはセクハラすべてに言えることである。そうでない限りは不快であるだけだ。男の人が男の人に言ってもセクハラである。
 ところが、最近思うことには、つまり、
「『いいケツ』というものはある」
 ということである。これはあまり大きな声で言えることではないが、というのは実際に市中でこれを言ったらセクハラにあたるからだが、確かに世の中にいいお尻というものはあるのだ。背の高い人と低い人がいるように、目がいい人と悪い人がいるように、いいお尻の人もいればよくないお尻の人もいる。そして、確かに、
「ねえちゃん、いいケツしてんなあ」
 と思うことはあるのである。これはもう、嫌がらせのためにそういうことを言うのではなくて、言葉の文字通りの意味で、そう思っている。ああ、このお姉さんはいいお尻をしているなあ、という、彫刻や絵画を賛美するような意味で、そう思っている。ああ、背の高い人はいるものだなあ、とか、ああ、美しい人だなあ、と思うのと同じように、そう思う。もちろん実際には、何度も書いているが、口に出して言わないのだが、それは大多数の人が私のこの言葉を聞いたら「セクハラだ」と単に思うからであって、その場合法的にややこしいことになるからであって、思っているか思っていないかといえば私は文字通りそう思っているのである。本当だ。

 などと、すっかりおっさんのようなことを書いているわけだが、上で、私が「いいケツをしている」と思うのは、誰あろう私の妻なので大丈夫である。だいたい、私がほかの誰かにそれを言ったところで、
「だって、私がどんなにいいケツだかあなたは見たことないでしょう」
 と言われるだけではないか。違うか、諸君。


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