おれ暗号のマニ車 このエントリーを含むはてなブックマーク

 原理的に絶対に解けない暗号、というものが存在する。量子暗号とか、そういう難しいことを言いたいわけではない。それよりはずっと初歩的で原始的で、しかしどんな高速なコンピューターをもってきても第三者には解読することができない。聞けばなあんだと思うのだが、それは同じ乱数表を送信者と受信者が持っているという、「ワンタイムパッド」という暗号方式だ。

 今、阿藤氏が伊藤氏に対してメールを送りたいが、内容を他人には秘密にしておきたいとする。送信手段は電子メールだが、たとえばメールサーバの管理人羽藤氏なんていう人がいて、かれはなにしろ管理人である上にモラルもなんにもないので、サーバを通るメールをしょっちゅうこっそり盗み見ている。だからして阿藤氏のメールも羽藤氏に見られることは覚悟しなければならない。そこで阿藤氏は、伝えたい文章を書き、それを暗号化して送ることにする。

 暗号化の第一段階として、阿藤氏はまず日本語文を数字の羅列に変換する。少し余談になるが、この文字から数字への置き換えも一種の暗号化とみなすことができて、これを「コード」という。大西の大の字は数字0001で表そう、などという「俺コード」を使ってもいいのだが、まあ、日本語にはJISコードというものがあるので、それを使うことにしよう。たとえば「今夜うなぎが食べたい。」という文章は、JISコードを使うと、
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 という数字列(十六進数なので0からfまでの「数字」の列)になる。これを便宜上「うなぎ数」と呼ぶことにするが、うなぎ数をそのまま送ったのでは内容は羽藤氏にバレバレなので、阿藤氏はここで、手元の乱数表のまだ使ってない最初のページのところを見る。そこに、こう書いてあったとしよう。
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 これは並びに規則のない「乱数」である。阿藤氏は上のうなぎ数と乱数を足す。16進法同士の足し算であるが、繰り上がり等細かいルールには目をつぶっていただいて、結果の「暗号数」はこうなる。
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 阿藤氏はこれをメールで伊藤氏に送る。ここで、伊藤氏は阿藤氏とまったく同じ乱数表を持っている。まだ使っていない最初のページのところを開けば、伊藤氏は阿藤氏が使った乱数がわかる。
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 当然ながらこれである。メールで送られてきた暗号数からこの乱数を引く。するともとの数字列であるうなぎ数、
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 が現れる。あとはJISコード表によって、
「今夜うなぎが食べたい。」
 という文章に直せばよい。

 傍受した羽藤氏には、これは解読不能である。羽藤氏は乱数表を持っていないからであるが、なんとかして乱数表を推測しようと思っても無駄である。これは「法則性のある数列(たとえばうなぎ数)」に「法則性のない数列(乱数)」を足すと「法則性のない数列(乱数)」になるという原理からきている。法則性があり、解読の可能性がある数列になるのは、「法則性のある数列」に「法則性のある数列」を足したときだけであるが、乱数は乱数で法則性がないので、どうにもならない。どうしても解読したければ、どうにかして阿藤氏の乱数表を手に入れるとか、阿藤氏がうっかり同じ乱数を二回使ったところをとらえるとか、そういう暗号のルール外の手を使う必要がある。厳密に手続きが守られている限り、暗号文はまったくのノイズ、法則性のない数字の羅列という意味での乱数と見分けがつかない。暗号文だけでは傍受者(羽藤氏)は何の情報も得ることができないのだ。

 この「羽藤氏が暗号文から何の情報も得ることができない」ということは、この暗号文がノイズ、乱数そのものと見分けがつかないこと、元の文章がどんな文章である確率もまったく同等である、ということを意味する。このことをもう少しよく考えてみよう。
「今夜うなぎが食べたい。」
 という文章は、使った(と想定できる)乱数次第では、
「明夜うなぎが食べたい。」
「今夜うさぎが食べたい。」
「今夜うなぎをなめたい。」
 であったかもしれないということである。それどころか、
「僕のコーヒーはクリープ」
「せめてひと月に一回更新」
「東京都杉並区高円寺北2」
「地球は一つ割れたら二つ」
 のどれでもあり得て、その他十一文字のどんな文章である確率も、まったく同じようにあり得る。
「明日の明日は明後日だー」
 かもしれないし、
「しげる、おなかすいたよ」
 かもしれないし、
「3.141592653」
 かもしれない。十一文字ということはわかるではないか、と思うかもしれないが、不安なら阿藤氏はうなぎ文のあとに適当にスペースを入れて、
「今夜うなぎが食べたい。     」
 としてから暗号化して送ることも自由である。羽藤氏には最後の5文字がスペースであることさえわからないし、仮にわかっても、そのことから暗号文の他の部分を解読することはできない。

 さてここで話はがらりと変わる。チベットあたりで信仰されている仏教の一派に「マニ車」というものが登場するものがある。ものがある、などといいながら私はこれを高校生の時に読んだ、なんかラノベみたいな小説で存在を知っただけなのだが、これは、お経が書かれている円筒であるらしい。円筒は軸のまわりに回転させることができる。興味深いのは、この円筒を一回廻すことによってお経を一回唱えたことになる、というルールになっていることで、行者は他の修行とともに時間が許す限りこの円筒を回して修行を行うことになる。まさにタイムイズマニである。

 そんな罰当たりなダジャレはどうでもいいが、ここでひとつ疑問がある。お経、聖書、聖典といった教義の書かれた本があり、それを読むことによってあるいは魂が救済され、あるいは聖なる存在に近づける、というような、なんらかの功徳があるとする宗教は多い。そうした宗教にとって、その聖典は書かれた言語そのままで読む必要があるのだろうか。それとも必要に応じて他の言語に翻訳したり、現代語訳したりしたものでも、同じ善行を積んだと考えられるものだろうか。

 もちろんこれは宗教により、宗派により、諸説あると思われるが、まずたいていは、どのような言葉で書かれていても聖典は聖典であるし、それを読むことにはなんらかの霊的な意味がある、と考えられているのではないかと思う。原典を原典の発音で一言一句間違えずに読まなければ意味がない、とまで原理主義的な宗派はあまりないはずだ。我々の上位に位置し我々を導く霊的な存在がもしもいたとして、その存在が「文法の誤り」や「発音の悪さ」を問題にするとは思われないからである。むしろ、今まで存在し、また今後登場するであろうすべての言語において、霊的存在は唱えられた聖典を聞き逃すことはない、と考えるほうが自然だ。

 と大風呂敷を広げたところでもう一歩進んでみよう。これら聖典は現代社会においてコンピューターに入力され、表示あるいは印刷されることも多いと思うが、これは聖典をなんらかの方式でコード化し、ハードディスクなりその他記憶装置におさめる行為であると言える。この段階で「うなぎ」は「うなぎ」ではなく「2426244a242e」になっている。うなぎが24なんたらになっても別にどうということはないが、神様的な存在の名前だって同じように数字にコード化されるのである。これは果たしてもとの聖なる言葉と同じ霊的価値を持つのだろうか。ここは少し難しい。高位の聖職者が伝統的な手法(たとえば墨と筆)で記したものしか価値がないという人もいると思う。が、ではハードディスク内の聖典に聖性がないのかというと、そんなことはあるまい。人間が施したコード化を理解できない霊的存在というのは、ちょっと情けない。すべてお見通しである、とここは考えたい。

 考えたとして、またさらに一歩進む。この聖典なり聖なる名前なりを、暗号化する。暗号化してハードディスクにしまっておくなり、メールで送るなりした場合に、霊的な価値はどうなるのか。暗号化したり圧縮したりした場合に、そこでいったん聖性は凍結され失われる、という考え方もあると思うが、上と同じ議論を繰り返すなら、上位存在にとって、やはり人間が施した暗号なり圧縮なりはものともせず、その本質を常に見抜かれている、と考えることが自然なありかただろう。阿藤氏から伊藤氏に送ったメールは、羽藤氏には読めないかもしれない。しかし、傍受したのが羽藤氏ならぬ神様的存在である江藤氏であった場合、かれには解読もできるし読める、と考えるべきだろう。

 さて、ここでワンタイムパッドの話を思い出していただきたい。どのような数でも乱数として暗号化のために使われうるので、ひとつの暗号文について、それぞれ同じだけの確率で、もとのあらゆる平文に対応する可能性がある。とすれば、適切なワンタイムパッドを仮定すれば、すべての文章は実はいままで現われたどのような聖典あるいは神の名といったものを、暗号化したものと考えられるはずである。普通、人間の目にはそれは単なる雑文に見える。もしかしたらネットのどこかで見つけてきた可愛い猫の写真に見えるかもしれない。しかし、適切なワンタイムパッドで複号化すると、それはまぎれもない、聖典になるのである。我々の上位に位置する霊的な存在にとって、データの虚飾の陰に隠れた霊的な意味をとらえることなど、造作もないはずだ。

 そして、ハードディスクこそ、そうしたデータを乗せてぶんぶんといつも回転している部位ではあるのだ。そこには、適切な乱数を用いて適切に復号化すれば聖なる言葉になるデータがいっぱい載っている。そして、そのディスクはマニ車のようにあなたの手の平の下でいつもぶんぶんと回転しているのだ(ノートパソコンの場合)。適切な復号用の乱数というものが、まったくその神にしか意味がない「おれ暗号」に過ぎないとしても、そういうふうに復号化することが可能である以上、神様はやる。きっとやる。全知全能なのだからしてやるにきまっている。

 もういいよ、という気がしてきたが、さらに押し進めて考えると、たとえば聖なる名前が「うなぎ」であったとした場合、
「このご飯の入ったお茶碗は『う』ね」
「こっちの白身魚が載った皿は『な』ね」
「こっちのくらげの酢の物は『ぎ』ね」
 などと日常のあれこれを「おれコード表」に従ってコード化して勝手に「うなぎ」をつくることも不可能ではなく、そうすると全知全能のうなぎがそれを見通していないはずはないということになる。コード化と暗号化が存在する限り、すべてものは聖なる名前であり、聖典であるのだ。かくしてマニ車は回り続け、そして周囲のあらゆるものがうなぎであり神となる。まことに、うなぎというのは素晴らしい食べ物というべきだろう。


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