普遍のヒーロー このエントリーを含むはてなブックマーク

 これは、一年ほど経ってこのページを読み返してみると本当にどうでもいいことだが、この文章の二つ前の第八二五回「成長を続けること」と、一つ前の第八二六回「全財産寄付システム」は、更新間隔がいままでに一度もなかったくらい、もんのすごく開いている。具体的に言うと2011年2月の次が2011年8月になっていて、実に六ヶ月近くも開いているのだが、ふつうこれだけ不在だと「この人はいなくなった」と見なされても不思議ではない。特にネットにおいては人の入れ替わりが激しいので、死んだり行方不明になっていなかったとしても、もうこのサイトは飽きてなんか他のことを始めちゃったのではないか、と思われてもしかたのない期間であると言える。なにしろ六ヶ月だ。高京市では生まれた子供が幼稚園に行くくらいの時間が経っている。

 などとわかる人だけわかればよいような例えはどうでもよいが、とにかくそんな一五・五ギガタウもの間何をしていたのかというと、地震があっててんやわんやだったという時期も確かにあるのだが、一言でいうと特に何もしていなかった。いろんなことを書いては消し、かいてはけしを繰り返していた気がするがよくわからない。とにかく、これからもがんばる。

 さて、そうやって六ヶ月放置したあとに二日続けて更新するのはなぜか、という疑問は当然あるかと思うのだが、それは要するにこういう理由である。
(1)これまでのあいだ、「書いては消し」をしていたとはいうものの、これは言葉のあやであり、そもそもテキストデータというものは失敗であることがわかっても、よほど心の傷になっているもの以外はわざわざ消去してハードディスクの空き容量を確保するほどのものではない。それどころかいつどこで続きを書きたくなるやもしれず、そのときにすでに消してしまった事がわかった場合、逃がした魚はリヴァイアさん?の諺通り、悔しさと切なさでそれこそ心の傷になる。と、だいたいそういった理由でもって書きかけのは消さずに単に放置してある。
(2)あるときなにか書きたいことができて、やれどっこらせ、どおらひとつ新しい雑文でも書いてやろうかねと思い、「大西科学」と書いてあるフォルダを開くと、そうしたかじりかけのシャケの切り身みたいなテキストファイルがいっぱいある。
(3)開いてみると、書こうと思っていたことよりも、どうもこの続きを書いて書きあげたほうがいい気がしてくる。以前気が乗らないので途中でやめたものだが、今途中まで読んでみると面白い。これを完成させるとすっごく面白いものになりそうな気がする。いくら考えてもそう思えてならないので、新しいほうのアイデアはとりあえずおいておいて、まずはこいつの続きを書く事にする。
(4)(3)を書き上げる頃には(2)で思いついたアイデアをきれいに忘れている。
 以上であるが、このような感じで一人楽しく暮らしております。という雰囲気が我ながらよく出ていると思うが、つまりこれは「新しいアイデアが入ってくると古いアイデアで雑文が一本なぜかできる」という、そういう一般原理の説明だった。そういうわけで、更新するときは連続になりやすい。へんな話だと自分でも思いますがそういうものらしいです。

 では今回の場合(3)というのは「全財産寄付システム」であろう、いやでもこれ、(3)で自賛するほど、そんなに面白かったかむしろ朝ご飯に一品足りないときにまあこれで我慢しとくかという感じの温め直したシャケの切り身みたいな味がしたぞ、とたちまち文句を言われるわけだが、いやそのときは自分でそう思ったというだけのことなのでどうか許してほしいのだが、それよりも今気になるのは(2)である。(4)で忘れたアイデアは、実はどんなものだったのか。思い出したから書き始めたのではないだろうか。だったら前置きはいいから早く書いたらどうか。

 書く。そもそもなぜ忘却の淵から拾い出すことができたかというと、そもそもこのアイデアというのはツイッターにすでに書いていたことを焼き直すつもりだったことを思い出したからだが、これである。

異星人とのコミュニケーションとはどういうものになるか。

 アイデアを忘れないようにメモするつもりで枕元にメモ用紙とボールペンを置いておくと、ある朝あきらかに自分の字でわけがわからないことが書いてあるという、そういう言葉の例であるように見えるが、大丈夫今思い出した。外国人との間のコミュニケーションというのは、たとえ言葉が通じる場合でも、意外に苦労する場合がある。よって立つ文化というか、共同理解のようなものが異なるからで、たとえばこれは上の「一五・五ギガタウ」云々は「ディアスポラ(※)」を読んでないとなんだかわからない、というようなアレである。つまりこれはある特定の小説を下敷きにして、それを読んでいる人だけがわかる文章を書いているわけだが、でもってこれは結局雑文であって教科書でも外交文書でもないのでわからなければわからないでまあいいわけだが、もしも誤解や失礼がないように、ちゃんと伝わる文章を共通の知識がない人を相手に書かなければならないとすると、誰にでもどうやってもわかるよう、ごく基本的な語彙を使って書くように注意をしなければならなくなるだろう。私のような非キリスト教徒だと、理解に聖書の知識が必要な小説を読んでときどき戸惑うことがあるが、そういうことである。含意や比喩、掛詞、冗談のようなものをちゃんと伝わるように書くのは難しく、結局なんでも直接書かなければならなくなると思われる。
「大西科学はなでしこジャパンを応援しています」
 ではなく、
「大西科学はサッカー日本女子代表に対し2011年度に◯◯円拠出しました」
 でなければならないし、
「応援しているこちらのほうが勇気と感動をもらいました」
 ではなく、
「よかったです」
 でなければならないし、
「急ぐとも心静かに手を添えて外へもらすな松茸の露」
 ではなく、
「おしっこを便器の外にこぼすな」
 でなければならない。ミもフタもないが、つまりこれは異文化間のコミュニケーションでは、しばしば会話がミもフタもないものになってしまう、でもそういうものなんだ、ということを意味している。

 なんかここまででずいぶん長くなって、もうここでいいのではないかという気がしてきたが、以上は、それでも人間同士である。もしも将来、違う星で進化した違う知的生物、異星人との交流がはじまり、どうしてもコミュニケーションを取らないとどんならん、ということになった場合、その交流の難しさは地球人の比ではないと思われる。言語や文化が違うだけではない。「酸素を吸って二酸化炭素を吐く」みたいな基本的なことからして違うだろうし、電磁波を使って相手を見て、空気の振動を使って相手の言っていることを聞く、という感覚関係も違うだろう。食べ物も違う。「お金」や「科学」はおろか「知性」「生存」「成長」といった、ごく基本的な語彙すら通じないかもしれない。そんな相手と出会ったところで、どんなふうに会話すればいいのか、まったくの謎である。

 私は思うのだが、こういう場合最後に残るのは「ボディランゲージ」かもしれない。それも手を叩いて二本指、丸をつくって目にひさしを設ける、すなわち「ぱんつーまるみえ」みたいなフクザツなものはとても無理であり、「そうそれそれ『富士山』。富士山正解。で、富士山はいったんこっちに置いといてー」みたいな身振りも通じないに違いなく、それどころか「メシにしよう」とか「デンワします」とか「オレの女が妊娠してるんで」みたいなのも絶対に通じない。通じるのはたぶん「やめろ」とか「違う」とか「そうだ」のような、ごく単純な会話だけではないだろうか。

 肉体を破壊されること、あるいは破壊されないまでも、これがもしもっと強ければ肉体が破壊されるであろう行動を取られることは、さすがにかなり広く、多くの生物で普遍的に通じると思われる。異星生物ではぜんぜんないが、たとえば飼い犬をしつけるときに「叩く」ということをする人がいるかもしれない。このときやっているのは、犬に対して永久的な損傷を与えることではない。そこまでしなくても、犬は「叩かれた」と感じ、「もしもこれがもっと強い『叩き』であれば自分は損傷するだろう」ともっともな推定を行なう。その上で「叩かれるようなことはしては駄目なのだ」「叩かれないように行動しよう」と学習するはずである。このへんの機微は、宇宙共通とは言わないまでも、かなり多くの宇宙生物でもちゃんと効果があると、そこは期待していいように思う。

 ということはどうなるか。異星人との会話は、傍目にはかなり乱暴なものになると想像される。はっきり言えば「殴る蹴る」になる。これは「攻撃」ではなくて「会話」なので、相手が永久的あるいは一時的な損傷を受けるようなものであっては意味がない(というか戦争になる)のだが、その範囲内である程度強烈なものでなければならない。このへんは説明が難しいが、たとえば人間が装甲宇宙服を着て軌道から異星に降下したとき、異星人にフェイスマスクのところをコンコンと叩かれたら、あるいはいきなり宇宙服の複合装甲を全貫通する砲弾を撃ち込まれたら「すいませんがこっちに来ないでください」の意味だと思うだろうか。そんなことはなく前者は「ははあ宇宙服が珍しいのだな」「宗教的なアレだな」などと思い、後者は「お前らみんな殺すとにかく殺す」の意味だと感じるに違いない。ここはやはり、乗っている人がびっくりするが損傷は受けない程度の打撃でないといけないのだ。たとえば「スリッパで叩く」とかそんな感じである。スリッパで叩かれたらさすがの陽気なヤンキーも「歓迎されてない」とわかるのではないか。

 アメリカ人を批判する意図はありません。そんな意図はないのにどうしてこうなったのか。何が言いたいかというとつまりウルトラマンだ。ウルトラマンは、地球にやってきた怪獣に対して、最初殴る蹴るの攻撃を行なう。たいして効いてないように思えるが、どうも本当にそうである。ときどきは殴るだけではなく、投げ飛ばしたりもする。早く光線技使えよどうせそんなので倒せないんだから、とヒネたチビッ子は思う。ところが、ウルトラマンは使わない。タイムリミットがやってきて、カラータイマーが点滅して、見ているチビッ子がハラハラしはじめたころになってはじめて、ようやく必殺技を繰り出して、怪獣を木っ端微塵に破壊するのである。

 何をやっているのか。私は言いたい。これが怪獣と、いや異星生命に対する、まっとうなコミュニケーションのとりかたではないのかと。上に述べたように、生物としてよって立つ元素からして異なる生物に通じるのは、殴る蹴るしかないのであると。いったい、ウルトラマンが「デュワ」とか「シャアッ」とか言っているのはどんな原始的な顔をした怪獣にも通じる普遍言語だろうか。そんなことないのであるそんなわけあるか。いや、ウルトラマンも本当は「こっちに来たらいかんよ」と言いたい。「お前には見えてないかもしれないがここにはちっちゃい生き物がいて君の事はたいへん迷惑に思っているのです」と伝えたい。「急ぐとも心静かに手を添えて、間違えて踏んづけたりするな地球人の松茸」と言いたい。しかしそんな言葉は通じないし共通の文化は何にもないし松茸のなんたるかも怪獣は知らない。そこでしかたなく、ウルトラマンは怪獣を殴るのである。

 ウルトラマンは、拳を通じて怪獣と会話をする。殴ったこの手も痛いんだ。でもこれもお前のためなんだ、と殴る。殴って、蹴って、時には投げ飛ばして、それでもわからない相手には、しかたがないので必殺技を使うのである。あまりにも強力なスペシウム光線を使う前の、あるいはこれは国際法(というか星際法上)やむを得ない準備段階なのかもしれない。アメリカだって「あの国ムカつくので水爆落とす、というかさっき落とした」とはなかなかいかない。いろんなルートを使って一生懸命交渉して、空母とかを派遣していっぱつ演習をやらかしたりして武力を見せつけたりもしながら時には少し譲歩もして、それでも足りなくてまた延々交渉して、それでも相手がいっさいの譲歩をしない、国際社会的にもあの国は(じゃなくて怪獣は)どうしようもないというコンセンサスがなんとなくできて、それではじめて、必殺技を使うことができるのである。

 相手を傷つけない攻撃でぎりぎりまで我慢してからいよいよ必殺技を使う。ウルトラマンや仮面ライダー、スーパー戦隊をはじめ、水戸黄門まで連綿と続くジャパニーズヒーローの行動様式が、実は宇宙規模で見た場合に普遍な行動様式であるということを今回見てきた。なんだか満足だが、これをここまで書くのに既に一五メガタウも使っていることを考えると、ちょっとなんだか先行きが不安にはなる。


※ グレッグ・イーガンのSF小説。ハヤカワ文庫。ISBN4-15-011531-1。


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