使者を撃つな

 昔から、どういうわけか他人の言葉を聞き返すことが多い。

 だいたい、映画や小説と現実との違い、もしかしたらもっとも大きな違いは「聞き返し」がないことである。これは「相手が今何か言った。でもなんて言ったかはわからなかった」という場面のことで、黒やぎさんが白やぎさんに「さっきの手紙のご用事なあに」と手紙を書くのと同じ、再送要求プロトコルのことである。

 などと、せいぜいむずかしいことを書いて自己満足していればいいじゃないですか、という感じがしてくるが、もちろんドラマなりまんがでも、物語の都合上「聞き返す」シーンがないかというと、それはある。ちょっと考えてみると、たとえば「とてつもなくうるさい場所である」「耳が遠い」「集中してない」「電話が遠い」「現地の言葉に不案内」あるいは「ストーリー上聞き返すことが必要」「そういうキャラクターであることの表現」といった必要から、物語中の人々も聞き返す。ただ、そんな必要のまったくないときに、どれくらいの「聞き返す」が発生しているのか、そのあたりがよくわからない。なにしろ、物語では通常発生しないのだ。

 私は聞き返す。自分の人生にストーリーというものがあったとしたら、その必然性なんかまったくない場面で、しかももっと言えば今のわりと重要なシーンじゃないんですか、というところで意味もなく聞き返すことがある。いや、誰にでもこれはあって、あとは頻度だけの問題だとは思うが、では他の人と比べてどうなのか。どうも、私は他人よりよく聞き返す人間だと、確かにそういう気がする。なぜかというと、私が相手に、
「えっ、今何て言ったの?」
 と聞き返すのと、相手が私に、
「えっ、今何て言ったの?」
 と聞き返すの、いや二回書くほどのことはない気がしてきたが、この二つの何て言ったのの頻度を比べるとだんぜん前者、「私が聞き返す」という場合が多い気がするのである。

 どうしてこういう非対称が生じるのだろう。私の耳が悪いのだろうか。少なくとも聴覚的には問題ないらしい。問題ないと言っても、これだって要するに程度問題であり、世の中を見回せば「百メートル先に落ちた針の音だって聞こえる」とか「犬笛だって聞こえる」という人がいるので私がそういう人間でないのは確かなことだが、とりあえず、人間ドックの先生に異常を指摘されるほどではなさそうだ。また、テレビやラジオで何を言っているのかが聞き取れなくて困るということはあまりない気がする。

 してみるとこれはやはり心構えの問題、「相手が何を言おうとしているのかちゃんと聞こう」という意欲の問題なのかもしれない。たとえば喫茶店。私とあなたとがいたとして、二人でコーヒーを飲んでいる。なぜそういうことをしているかというと、これは日常における本末転倒大賞ノミネート行為な気もするが、ふつう「コーヒーが飲みたい」と思ってそうしているのではない。真の目的は会話である。二人で何か話をしたい。何らかの結論に達したり達しなかったりだが、とにかく話をするためにそこでそうしているのである。

 しかし聞き取れない。そういう会話に集中するための場所で、会話に集中するべきときに、ふと相手が何を言ったのか聞き取れなくて、聞き返す。
「えっ、今何て言ったの?」
 と、そう聞き返すことになる。聞き返す。ひどいときには一分間に2回くらい聞き返しているような気がするが、そうなると相手がだんだん怒ってくるのが、私にもわかる。むっとしているのだ。むっとして、なんだこいつ、と思っているのだ。聞いてないのか。他のことを考えているのか。「このメニューは店主の娘が父の日に作ったので使わざるを得ないのだろうか」とか「あの壁にかかっているサインは誰のもので店主は何を思ってあそこに飾っているのだろうか」とか「この砂糖の入った壺の中に入っていてもっともイヤなものは何だろうか」とか、とにかくそういうことを考えながら会話をしているのではないかと思っているのだ。時には「プリンアラモードとうまいこと駄洒落になる言葉は何か」等を考えながら会話をしているから、聞き逃すのだと思っているのではないかと思う。

 そんなことはないのだ。誓ってそんなことはない。いや、実を言うとそういうことはあるが、そうでない場合も多い。だいぶ多い。だから、これは駄洒落のことなんか考えてない場合に限ってのことだが、聞き返して、いやな顔をされて、ああ理不尽だなと思うのは、しかたがないことではないだろうか。時には相手を怒らせたくないので、ついカンで、
「あ、うん、そうだよね?」
 と微妙に語尾を上げて返事をしていることもある。実によくないことだと思うのだが、こういう場合の会話はべつに目的があるわけではなくて、じゃああんまり聞き返して怒らせては何の意味もないではないか。

 他人と会話をしていないとき、一人になってからのことだが、このことについて私はよく考えてみた。よくよく考えてみると、二人の人間がいて、話が通じなかった場合、コミュニケーション不全に終わって聞き返しプロトコルが発生する場合について、考えられる原因はたくさんある。たとえば、

・話者の言い方(言葉の組み立て方)がよくなかった。たとえば主語がなくて相手には何の話だかわかっていない。
・話者の発音がよくなかった。口のなかでもごもご言ったので相手は何を言っているのかわかっていない。

 という、話し手の問題がある。それから、

・周囲の音がうるさくてまぎれてしまった。
・(途中に電話などがあった場合)ノイズが大きくてまぎれてしまった。
・(携帯電話などで話している場合)電波状況の都合で通話が途切れて聞き取れなかった。

 という、通信状態、環境の問題がある。それからやっと、

・聞き手の耳がよくない。耳が遠い。
・聞き手が言葉を聞き取れていない。話者に集中していない。
・聞き手の理解力が及ばない。言葉は聞こえているが、理解できない。

 という、聞き手の問題があるわけである。他にもあると思うが、このようにさまざま原因がある中で、上の駄洒落問題のような「聞き手が集中してない」というのは、たった一つに過ぎない。その他は話者が悪いのであったり、不可抗力であったり、聞き手に原因があっても「悪い」とは言えない、そういう理由であると言える。

 しかし、怒られるのはだいたい聞き手のほうで、話し手が「ああ、言い方が悪かった」と反省して丁寧に言い直してくれることがあんまりないのは、これはいったいなぜなのか。たいへんひどい話ではないか。いや、聞き返して、もう一度言って、そのことで疲れるのは主として誰かというと話し手なので、だからして怒る気持ちはなんとなくわかるが、それはそれである。話が通じなかった。すなわち相手が悪い、というのはたいへん理不尽なことではないか。

 むかしから「使者を撃つな」という言葉がある。やってきた知らせが悪い知らせでも、怒ってその使者を責めてはいけない(そんなことをしていたら必要な情報が手に入らなくなり、長い目で見て自分が困る)、という意味だと思うが、持ってきたのがべつに悪い知らせでなくても、使者というのはとかく悪者にされがちである。これは通信が成立しない、会話がなかなかすすまないことをのいらだちを、つい手近にいる者にぶつけがちになる、ということではないか。

 つまりこういうことだ。会話が成り立たないのは、相手が悪いとは限らないのに、つい反射的に、相手を悪者にしたくなる。しかし本当はコミュニケーション不全の原因はどこにあるかはわからないのであって、だからして会話においては怒る前によくよく考えて、聞き返した私に反射的に怒りをぶつけるのはどうかやめてほしいです、ということである。だって、そんなに駄洒落のことばかり考えているわけではないのである。ほんのときどきなのである。


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