名前の、そして名付けることの大切さというのは、先日のペンギン大脱走事件でよくわかったところではないかと思う。後世のために記録しておくと、2012年3月4日、東京湾を泳いでいるところが発見されたこのペンギンは、前日、近くの葛西臨海水族園からどうやってか逃げ出したものであるらしいことがすぐに判明し、新聞等で大きく報道された。捜索にも関わらず逃げ続けたこのペンギンは、驚くべきことに初夏まで東京湾で生き延び、同5月24日、ついに保護されて水族館に戻っている。ところが、この脱走と捜索と発見と保護の一連の流れの中で、我々はみな気付かされた。このペンギンには名前がないのである。どうも、水族館にはフンボルトペンギンがたくさんいて、いちいち名前をつけていられないからではないかと想像されるが、「337号」という番号があるだけで、このペンギンはこれまで固有の名前がつけられていなかったらしい。
一匹(一頭?)きりいる目玉展示のジンベイザメみたいなのはともかく、水族館にたくさんいる動物に名前がないということはありえると思うし、そのことはしかたがないのだが、ここは無理矢理でも逃げたその日にでも名前をつけておいたほうがよかったのではないかと思う。別のペンギンニュースで言うと、2011年にニュージーランドで発見された迷子のコウテイペンギンがいたが、かれは即座に「ハッピーフィート」と名付けられている。同名の映画からとった名前なので、なんだか映画タイトルとややこしいことは確かだが(しかも、同年後半にこの映画の続篇「ハッピーフィート2」が公開されている)、それでも、「迷子のコウテイペンギン」と呼んでいるよりはずっとましだし、なじみが深い。
そう。名前は大切なのだ。それまで名前がなかったものが、あるとき名前を与えられることで、かれについて話すことができる。かれを報じることができる。そして今や、かれはネットで検索できる。かれのスレッドをたてることができる。かれはネット上で永遠の命を与えられるのだ。それはいいことである場合だけではなくて、悪いことである場合もあるけれども、このペンギンたちのことを(そして人々がそれについて何を書いたかを)あとになって調べたい研究者にとっては、「ハッピーフィート君」と「2011年にニュージーランドで発見された迷子のコウテイペンギン」の、どちらががよいかは明らかなことではないかと思う。名前は与えるべきなのだ。なるべく早めに。
と、ここで話は変わるのだが、以前から私が、同じように「名前がなくて困る」と思っているものとして、ネット上でよく見かけるある種の行動、ないしは誤解があって、これに何か名前が欲しくてしかたがないのだが、どうしたらよいのだろうか。
たとえばこういうのである。ネットの意見を見ている。大きな掲示板とか、今だとツイッターみたいなものがあるので、適当な数のユーザーをフォローしたあと、タイムラインをぼーっと見ているだけでいいかもしれない。そういう発言の中で、ある特定トピックについての意見(深刻なものもいろいろあるが、気楽なところで新しいガジェットの評判とかはどうだろう)を見ていると、まあ、おおむね、趨勢として、ある世論みたいなものが見て取れる。ところがあるときこの潮目がぱたっと変わる。この間まで「◯◯って超スゴい。クール。持ってないやつは言っちゃ悪いけど情報弱者」みたいなことを言っていた人々が「◯◯使いって超最悪。馬鹿みたい。首折って死ねばいいのに」みたいなことを書くようになっているのだ。
何が起こったのか。人々は移り気で、自分が言ったことをすぐ棚にしまい、舌の根がどこにあるのかちょっと忘れたがとにかくそこが乾かないうちに別のことを言い始めるのか。いけすかない奴だと思っていたクラスの不良が、実は大怪我で入院中の兄さんのことを気にしている兄思いの少年だということに気付いて、思わずきゅんとしてしまったのか。確かに見かけによらず不良にもいいところはあるのかもしれないが、君の隣にいるまじめで快活で誰にでも優しい男子のことを忘れてやしないか。
そうではないと思うのである。時として、人は意見が変わる。前後で言っていることが違うことはある。ただ、そういう場合にコロっと言うことを変えてテンとして恥じない人は、そんなにたくさんはいないはずである。ツイッターのように個人の発言を追跡できるメディアでは特にそうだ。ただ、タイムラインをぼーっと見ていてまったくそうは感じない(意見がコロっと変わったように見える)のは、実は「前後で言う人が違う」という、それだけのことではある場合が、実は多い気がするのだ。
人は確かにいいかげんなものである。世界が自分の思い通りに動いている場合には、発言の必要を感じないので、だまっている。たとえば政府が、国民の半分が得をし、残りの半分が損をするような政策を実施したとして、自分が得をするほうの半分に入っていたら、そのことについて特に何かを言う必要は感じない。また、世間で人気の有名人に対して、何か割り切れないいけすかない気持ちを抱いていても、普通は黙っていることが多い。そういう意見は、その有名人が何か失策を犯したときに「そういえば前から気に入らなかった」という形で、初めて表明されるのである。ところがここで、無理もないことながら、誤解する。誤解し、この移り気な大衆に対して、何か絶望的な感想を抱く。じつはその「大衆」というのは一貫した意見を持ち自分の発言に責任を持つ一人の人間ではなく、さまざまな意見を持つたくさんの人で、自分が発言するべきときに発言しているだけの人々である。しかしぼーっと見ている人には、とてもそうは見えない。
もう一つ見てみよう。空港があるときは騒音や周辺の渋滞、危険について声高に訴えていた人々が、空港が廃止されるや一転、地域経済の落ち込みや失業率の悪化について文句を言い始めたように見える。少なくともこの場合は前者と後者は違う人間である場合が多いが、一見、そうは感じられないので、必ずやここで「駄目だ人間というものは駄目だ」と思ってしまう。どこかに異世界から人類に審判を与えるためにやってきて手違いで主人公の家に住み着いた超存在がいて、人間をどうするか迷っていたとして、その超存在が、よせばいいのに主人公のパソコンで匿名の掲示板なんか見ていた日には必ず言う。「なあシンスケ。ニンゲンはやはり不完全な存在だ。おれはニンゲンを滅ぼすことに決めたよ」とかなんとか言い出すに決まっている。
さあ本題だが、だからだ。だから、ここでこの現象に何か名前を与えておくとたいへんよい、と思うのである。「たくさんの人のいろんな意見の、今、大きい声だけを聞いていると、一貫性がなくたいへん勝手な意見ばかりに思えてくる」ということである。ここでシンスケがああだこうだ説明しているとたいへんな手間がかかるし、ちっとも要領を得なくて、面倒になった超存在がやっぱりニンゲンを滅ぼしにかかるかもしれない。だからこれに名前を与えておくべきだと思うのである。
ではどういう名前がよいか、と言われると困るが、たとえば「聖徳太子の誤謬」とかはどうか。聖徳太子がその特殊能力である《マルチプレックス・ヒアリング》を発動させて、十人から同時に意見を聴取している。ある人は言う。「ここは増税に踏み切るべきです。このまま財政が悪化し、国債の利率が上昇すれば、資金調達が不可能になり、政府の機能が停止します。そうなれば、困るのは弱者である国民です」と。また別の人が言う。「この景気状況で増税に踏み切るのは愚の骨頂です。そもそも、デフレの克服と景気の回復が最優先課題であり、政府はそれを放棄した状態にあります。増税を行なっても、消費が落ち込むことで税収は増加しません」と。それぞれ一理ある意見である。ところが、それを聞いていた聖徳太子が怒り出す。昨日朝4時半までテレビでサッカーを見ながらオンラインゲームで陣地を構築していたせいもあるかもしれないが、突如として激怒するのである。「おまえらどっちやねん」と。どっちやねん、ではない。別々の人の別々の意見があるだけなのだが、寝不足なのでそのへんどうでもよくなって聖徳太子は怒っている。そういうイメージである。
という説明で誰もが理解してくれるかどうかはわからない。ただ、さきの超存在と同居している主人公がここで「それは違うよパキディプテス。『聖徳太子の誤謬』と言ってみんなそう思うんだけど実はそうじゃないんだ」と説明できれば、なにしろディプテスの目の前にある箱は「ウェブ検索」という機能もある便利な機械なので、かれが自分で調べてくれて納得してくれる可能性もある。そう、そうやって面倒くさがらすに、一つひとつに名前を与え、可視化してゆくことで、脱走ペンギンは人々に親しまれ、超存在パキディプテスは人間を滅ぼすのは止めてくれる。とりわけ後者の効能を期待して、まずはこのような文章を残しておく次第である。