エレベーターの国民性

 エレベーターの「閉」ボタンというものは、あれは国により存在していない場合があるそうで、それにからめた文明論のような文章を以前どこかで読んだことがある。細かいところは忘れてしまっていて恐縮なのだが、まず日本では、あれは「閉」ボタンを押すべきものだということになっている。エレベーターに乗ったあと、漫然と扉が閉まるのを待たずに、むしろ一刻も早く「閉」ボタンを押さねばならない。目的階に向かって早く着かねばならないと考えているのだが、海外、某ヨーロッパの先進国ではまったく異なる。人々は、たったそれだけの時間を節約しても仕方がないと考えていて、だからエレベーターには最初から「閉」ボタンなどない。

 申し訳ありませんでした確かにその通りで私たちはたった数秒の時間に我慢できないバカでイラチでオッチョコチョイな国民ですごめんなさいごめんなさい、と平謝りに謝りたくなるところだが、まあ、この手の文明論にたいてい言えることとして、一つの物事から国民性を語るのは、やり過ぎであろう。実のところ、日本人が「閉」ボタンを押したがり、その某国の国民が押さないとしたら、それは「日本のエレベーターには『閉』ボタンがついているが、その国ではそうではない」という、ただそれだけの理由に過ぎないのではないかと思われる。

 これはたとえば、電車のドアについて考えてみるとわかる。通勤で使うような普通の列車についているドアだが、あれはどこでも自動で(車掌さんの操作により)開閉されると思ったら大間違いである。私の知っている限りすでに二カ所、福知山線の北に向かう列車と、常磐線でもそうだったので、これは太平洋岸の都市部より北に行くとほとんどそうなのではないかと思われるが、電車が駅に到着してもドアが自動で開かないタイプの車両というのが、けっこうあるのだ。そのかわりこの手の電車ではドアの横に「開」「閉」ボタンがついていて、乗客が自分でドアを開け閉めするのである。電車の外にもボタン(こちらは通常「開」だけ)がついていて、これに気づかないとせっかくやって来た電車になかなか乗れないことがある。

 そういうボタンだが、明らかにわかることとして、北に行くほど乗客がせっかちだからついているのではない。単にこれは車内を保温するためのものである。ホームに着いた電車が、折り返しや急行待ち合わせのために長い間止まっていることがあるが、この間、ドアが開けっ放しだと寒くてしょうがない。かといって個々のドアを車掌が人の流れを見て開け閉めするのは不可能なので、乗客が自分でドアを閉められるようについているのだ。上のような「システムを知らない人をホームに置き去りにする危険」を避けるためだと思うが、発車前の一瞬だけ、全ドアがいったん開いてから閉じて出発するようになっていたりするが、とにかくそういうものがある。

 で、この場合。駅で止まっている間、15分間誰も客が来ないような駅もあって、その場合は万々歳であるのだが、いやその間に山手線はだいたい1/4周したりするのでこの時間感覚の差はどうなのかと思うが、一方でわりと人通りが多く、ひっきりなしに乗客がやってくるような場合もある。そういうときこの「手動ドア車」がどうなるかというと、次々とドアが開いては閉まるという、そういうことになるのである。こうだ。電車が止まっているが、ドアは閉まっている。そこに誰かが乗ろうとやってくる。その人が電車の外についたボタンを押してドアを開ける。ドアが開いたので電車に乗る。その人は、今度は電車の内側にあるボタンを押してドアを閉める。寒いからだ。そこにまた誰かが来る。ドアを開く。電車に乗る。寒い。ドアを閉める。また人。ドア開く。電車乗る。寒い。ドア閉める。また人。開。乗る。寒。閉める。人。開。寒。閉。はためには実にせわしなくて、誰かに謝りたくなる。申し訳ありませんでした私たちはたった数秒寒いのが我慢できないバカでイラチな民族で。

 しかしそうではないことは幸いみんなわかっているわけである。首都圏ではどうか。みんなはホームの待ち時間の数秒間など、どのみち大差ないことを知っていて、わざわざドアを閉めようとはしない。だから電車のドアに「閉」ボタンなどない……わけだが、これを国民性(地域性というべきか)で語るべきものではないのは、明らかではないかと思う。必要があってボタンがついていれば、人はせわしなく操作したがるし、なければないで、そういうものだと思って我慢する。それだけのことだろう。

 こういったことは「人は押しボタン式信号ではボタンを押すが、そうでない信号ではそういうものだと思って漫然と待つ」とか「日本には交差点に信号があり人々はそういうものだと思って赤信号を待つが、ヨーロッパにはランドバウトと呼ばれるロータリーが多く、ここでは基本的に車は止まらない」というような他の例で考えてみることもできて、まあその、くどいようだが、あまり細かな習慣や常識の違いから熱心に国民性などを見いださない方がよい、ということではないだろうか。

 というわけで今日も私は「閉」ボタンがあり普通にみんなが「閉」ボタンを押す電車なりエレベーターに乗っているのだが、そこで一つ考えることとして、エレベーターの場合、「閉」ボタンが押されないような事態では、時間が完全に無駄になるが、日本人としてそれでよいのか、ということがある。

 考えてみよう。今、私は10階建てのビルの7階にいて、1階に行きたいと思っているとする。この付近にはエレベーターは一基しかないとして、それが今、下からやってきた。7階で降りたい人がいるらしく、ドアが開いて人が降りてきたが、まだ中には人がいて、このあとエレベーターは上にゆく。10階まで行って、引き返してくるらしい。ここでふと気になるのである。それは「10階で乗る人はいるのか」ということだ。乗る人がいる場合はよい。しかしもし、降りる人だけだった場合。そこでエレベーター内が無人になることになる。それがどうしたのかというと、いかにも無駄な時間が生じる。つまり、空になったエレベーターでは、誰も「閉」ボタンを押してくれないのだ。

 そうなるとその分10階に止まっている時間が長くなり、それだけ私がエレベーターを待つ時間が長くなる、ということなのだが、いやたいへん細かいことを言い出しているとは思うのだが、ここでよいアイデアが一つあると思うのである。最初にもし私がエレベーターに乗っていたら、すなわち下からやってきたエレベーターに私が乗っていたらどうなっていたのだろう。

 無駄ではない。これは無駄なことではない、という気がする。まず、エレベーターは一基しかないのだから、方向が違うからと見送ったエレベーターの代わりがどこかから来るわけではない。やがて引き返してきた同じエレベーターに乗るしかなく、したがって時間的に、どう転んでも損はしない。それどころか、折り返し地点でエレベーター内が無人になったりはせず、私がそこで「閉」ボタンを押すことで、わずかではあるが、素早く引き返すことができる。すなわち、一基しかないエレベーターでもっとも早く目的階に到着するためには、どんな場合もエレベーターに乗った方がよいのだ。

 実は私はあるとき上のように考えて、実はそれ以来、来たエレベーターには必ず乗るようにしている。行き先に関わらず開いたドアにはまず飛び乗って、それで開いたドアでは必ず「閉」ボタンを押して、エレベーターの円滑な運転に協力している。しているのだが。

 正直に言おう。私が7階から上ゆきのエレベーターに乗り、引き返してきてふたたび7階でドアが開いたときの、待っていた人々の視線が痛いのは、これはどうにかならないものだろうか。「ア、大西サン今間違エマシタネ」という、お魚くわえたドラ猫を裸足で追いかけて行った若奥さんを見るような目は。

 私はつくづく思うのだが、日本人が、その国民性としてささいな数秒を争って節約するような人々であるとは、とても言えないのではないか。


ツイート


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧ヘ][△次を読む