中には「私はそうではなかった」という人がいるかもしれず、その場合は私としてはその偉大さにただひれ伏すだけなのだが、私という人間もまた、子供の頃は人生には無限の長さがあると思っていた。いや、人はいつか死ぬということはちゃんとわかった上で、その上で、あまりそのことを実感としてわかっていなかったと思う。
よく「きみには無限の可能性がある」という。「未来は無限大だ」みたいな言葉もよく使われる。これ自体、そもそも無限の可能性とはどういうことか、たとえ無限に選択肢があったとしても、その可能性を合計したらやっぱり1にすぎず、1はとうてい無限などではない。むしろ、モデルを立て、計算をしていて何かの存在可能性が無限大になったりしたら、それはモデルか計算のどっちかが間違っているのである、などと思ったりしたが、言葉通りの無限ではないとしても、何か若さというものには無限を思わせるものがある。無限小の自分と比べての世界の広大さ、そのへんを表現したこれは何かだと思う。
それはいいのだが、困るのは小学生くらいの子供が無限という言葉を字義通りにとらえて、なんでも無限と考えてしまうことで、どう困るかというと「ゲームと勉強の優先順位」とか、そのへんのことでたいへん困るのである。今困っている。たいへん困っている。
たとえば、宿題がある。これを期日までやって先生に提出する必要があって、いや、よく考えたら本当はやらなくてもいいのかもしれないが、先生との人間関係とか、周囲のクラスメイトの目とか、そういうものを総合的に思慮したところ、これはやっておいたほうがいいと判断したとする。だからやらねばならないのだが、ところでここにゲームがあり、たいへん魅力的である。こういとき、どうしたらいいのだろうか。
そういうときに「人生は無限である」という感覚を用いることで、ゲームもでき、宿題もできるたいへん便利な思考方法がある。まず、ホテルがある。たくさんの宿泊客が泊まっているが、部屋と客は、それぞれ自分の時間と、その時間を使ってやりたい、やらねばならないさまざまな物事のメタファーである。たいていの人は、自分の時間に応じた大きさのホテルを想定して、予約したり飛び込みでやってくる客の数を考え、空き部屋があるかどうか、あったとしたらどのくらいあるかを考えて、スケジュールを立て、今やらねばならないことをやっている。
などと、私などこの段階で、本当にそうできている人がいたらその偉大さにひれ伏す思いであるが、まあ、だいたいなんとかやっている。ここで言えることは「子供はそういうことはできない」ということであり、ほかのうちのよくできたお嬢ちゃんお坊ちゃんはどうかわからないが、少なくともうちのには無理であり、やらないのである。ホテルはすでにいっぱいいっぱいなのに、突然やってきたゲームさんを、ほいほい泊めたりする。そのあとさらにテレビさんをお通しして、まんがさんをお迎えして、結果、自分の部屋がなくなった宿題さんを、あなたのお部屋?さあ、外に馬小屋か自転車置き場かなんかあるんじゃないですか、と寒空に放り出すのである。実に痛快だ。いやそうではなかった。たいへんだ。
思うにこれは「子供の未来は無限大だ」ということなのではないか。むしろ、無限であるという仮定があるからこそ、上記の非道なふるまいが可能になるのではないだろうか。
今、無限に部屋数のあるホテルがあるとする。この場合の無限とは言葉のあやでつかわれる無限ではなくてガチの数学的な無限のことであるが、ここに「宿題」とか「自主学習」とか「学習塾」とか「スポーツ少年団」とか、あと「風呂」とか「ご飯」とか「着替え」とか、やらないといけないことが泊まっている。ホテルに風呂が泊まっているとか、たいへんサイケデリックな想像であるが、うっかりドアを開けたら着替えがちょうど着替え中で「ドントディスターブって札出しといたでしょ」と怒った着替えがズボンかなにかを投げてくるわけであるが、まあいいとして、とにかく人生はやらねばならないことでいっぱいなのであるが、とにかくそうしたもので満室である。空き部屋はない。ところが、そこにゲームがやってくる。しかも、スプラトゥーンとかそういう、めっちゃ面白いゲームだ。
どうするか。ホテルが有限であればどうしようもない。しかし、子供の未来は無限大であり、ぜんぜん大丈夫なのである。「ヒルベルトの無限ホテル」の話を知っている人には冗長であるが、こうである。まず1号室の「算数ドリル」さんにお願いして、2号室に移ってもらう。2号室には「漢字マスター」さんであるが、これは3号室にかわってもらう。3号室から5号室にもともといた「読書感想文」さんご一行は、4号室から6号室までの3部屋に、順繰りに移動していただく。この調子で、今泊まっている勉強さん生活さんに、1つ隣の部屋に移ってもらうのである。これで誰かあぶれる人が出るかというと、そんなことはない。有限のホテルであれば誰かは追い出されるのであるが、無限ホテルは無限なので、存在しない部屋番号はないのである。最初がたとえ無限の数の客で満室であったとしても、上のように部屋を移ることで見事1号室が空室になり、誰も困る人はいない。新たにイカのゲームを宿泊させ、朝までナワバリバトルをしたらいいのではないか、ということになるわけである。
さらに言えば、恐ろしいことに、無限ホテルには無限の人数のゲームさんなりテレビさんなりまんがさんを泊める余地がある。これは、現状宿泊されているお客様に、自分の部屋番号の倍の番号の部屋に移ってもらうことで達成でき、こうすると、誰も困る人は出ず、奇数の部屋がぜんぶ空き室になるので、無限大の数のゲームに、それこそ大乱闘スマッシュブラザーズさんやらリズム天国・ザ・ベスト+さんやらIb(イヴ)さんやらにお泊まりいただくことが可能になるのである。それでいて勉強もできるし歯も磨けるので、無限ホテルというのはたいへんに便利だ。これに限る。子供が無限の未来に安住するのは当然であるし、私だってできたらそのようにして生きてゆきたい。
しかしそんなことはないのであり、宿題をやらねばならない日はいつかやってくるし、教室のうしろの壁に貼ってあるクラス標語が何と言ったとしても、未来は決して無限などではない。詰め込んだホテルの反対側からはポロポロと何かがこぼれ落ちているのである。そのことには、なかなか気づかないかもしれないのだが。
考えてみると、その点において、夏休みというものがあり、そこに宿題というものがあるのは、これはたいへんよいことである。夏休みは有限で、子供たち自身を含め、そのことはみんなわかっているはずなのに、それなのに子供たちはつい、夏休みホテルに宿泊客を詰め込みすぎる。未来に向けて、お客様たちにいくらでもお移りいただけそうに思えても、いつかは(というか夏休みの終わりには)怒った客にフロントを取り囲まれ、カウンターの上のベルをガチンガチン鳴らされることになるのだ。そうしてはじめて子供たちは、自分のホテルが無限などではないことを、知るのではないだろうか。笑いながら、泣きながら、こうして夏休みは通り過ぎてゆく。まるで人生そのもののように。
だから夏休みの終わりは、いつも少しさみしいのだと思う。