「船幽霊」というものがある。いや「ある」などと、仮にも科学と名のつくサイトで言ってしまっていいのかと思うが、なにしろ「ふなゆうれい」で辞書にも載っているのでいいことにするが、どうも、船に乗っていると現れる幽霊の一種であるらしい。海で死んだ人間の霊であり、出会うと、なぜか柄杓を要求される。つまり「トリックオアトリート」のたぐいであり、季節柄「ひしゃくくれないといたずらするゾ」とかなんとか言うのであろう。そうして要求されて渡さないと、それはそれで言うに尽くせぬ恐ろしいトリックが絶海の孤船上で繰り広げられるのだろうと思うが、渡したら渡したで、こちらもたいへんである。船幽霊は、柄杓で海の水を汲んで、船に注ぎ込み始める。そうやって排水量に等しい水を注ぎ込まれた結果、たちまち船が沈められてしまうのだ。船が沈むと人は死ぬ。新たな船幽霊の完成である。このようにして厳しい自然界で船幽霊は自分の遺伝子を残すのです。
そのように怖い船幽霊であるが、面白いことに回避法も辞書に載っている。「柄杓の底を抜いてから渡せ」というのである。そうすると、船幽霊はどうするか。どうするかって、そんなことをされたら普通は怒ると思う。その怒りはどこに持ってゆくのか。「おんどりゃこん畜生底が抜けとるやんけ」とか叫びながら柄杓でこちらをガシガシとめった打ちにするのか。ところが、どうもそうではないらしく、船幽霊は渡された、底の抜けた柄杓でひたすら水を汲み入れようとして、できないので、船は沈められずに済む。
なんだろう、このあたりの話は、果たしてリアルさについて何かを考えてから作ったものなのか。そうなのかどうか疑問に思えるのだが、そういう話なのでしかたがない。この話から透けて見えるのは、こういうことである。
どうも、船幽霊というものは、かれなりの思考や判断力を持った、人間とは異なる知性のありかたというよりは、特定の命令を与えられ、それを愚直にこなすことがしかできない、ロボットのようなものとして考えられているようである。よくロボットやコンピュータについて「あらかじめ命令されたことしかできない」と表現されていることがあるが、そういうものが登場するずっと前から、日本人は幽霊を「あらかじめ決められたことしかできない」「融通のきかない」存在として思い描いていたのではないだろうか。
余談であるが、このことは、他のいくつかの幽霊話からも透けて見える。最近では、いや最近でもないが「口裂け女」という都市伝説があり、「ポマードと言うと逃げてゆく」という伝承が口裂け女の特徴として伝えられていた。なぜポマードなのか。そしてなぜ、それを耳にすると逃げてしまうような言葉があるのか。よく考えてみると、普通の人間が「トンカツと聞くとよだれが出ます」などという単純な反応をすることなどあり得ないではないか。つまりこういうことである。
なぜなのだろう。西洋の、たとえば吸血鬼にしても流水だとかニンニクだとかよくわからない弱点があり、上の言葉は「日本人は」よりもいっそ「人間は」としたいところであるが、これはたとえば「力が強いかわりに何か弱点がある」というストーリーが心に訴えかけるので、多くの人に伝わり残る、というような事情があるのかもしれない。あるいは伝説が伝わってゆく仮定で「口裂け女?ポマードって言うと逃げてゆくらしいよ」という短いデマカセが付け加わるときに、複雑な思考する存在としてのモンスターはちょっと入り込みづらい、という事情はあるのかなと思う。
それはともかくとして、「力はあるが思考はできない、プログラムされた行動しかできない存在としての幽霊」という設定に、不思議な説得力があるのは確かである。過去を振り返り、未来を想像して、現在の自分を変えてゆく能力というのは、これは人間だけに限られたものである。幽霊は、人間ではない。たとえばそれは、思い残すことがある人が、そのときの思念力をエネルギーとして、今の主観でもって作り出すもので、プログラムが間違っていたり例外についてあまりよく考えていなかったとしても、もう変更することはできない。実際にはもちろん幽霊などというものはないわけだから、これは「それっぽい」という話でしかないが、もしも幽霊というものがあるとすれば、そういうものだという気がする。
そして、以上とはまた別に思うのだが、複雑な思考ができる、複雑な幽霊というものは、どっちみちさほどの力がなく、せいぜいちょこっと話し相手になれる程度ではないか。本当に力のある幽霊は「わたされた柄杓を目の前の船に全力水投入する」ような単純なアルゴリズムで動く奴であり、それでこそ、柄杓一本で戦艦を撃沈するような力が発揮できるし、どうせだからそっちを目指す幽霊が多いのではないか、という気がする。そのようにして、世界のどこかに「いつまでも海底にガンガン頭をぶつけ続ける幽霊」とか「同じところを百万年ぐるぐる回る幽霊」とかが存在していると思うと、ちょっと怖い。死ぬ前にいろいろ勉強して、そういうのを残さないようにしたいと思う。