第一七話『恵子の恋(前篇)』

 恵子の朝は早い。フレックスを生かし不定期に朝寝坊をする各務よりも早いのはあたりまえだが、朝七時前というとほうもない時間から始まる部活の朝練が、地下鉄のラッシュに遭わないという福音とともに、慢性的な寝不足もまた、彼女にもたらしていた。それでもなんとかなるのが高校生というものではあるが、そのしわ寄せが授業態度のほうに寄るのはいかんともしがたく、彼女が通う市立高校のクラスの中では、彼女の成績がかならずしもよろしくない位置にある、と見なされているのも確かだった。今はまだいい。しかし、卒業まであと一年、そろそろ進路についてのなにごとかを、各務とともに悩まねばならない季節がやってこようとはしていた。

 そんな冬の朝の部活動を終え、運動でぽかぽかと暖かくなった体に幸せを感じながら、ホームルームが始まるまでの貴重な数分を、教室の自分の席での居眠りに浪費しようとしていた恵子は、いきなり肩をたたかれて、しぶしぶ振り返った。
「あ、なんだ、美奈ちゃん」
「お、は、よ、う」
「おはよぅ。おやすみ」
 そういってだらしなく机に突っ伏そうとした恵子の制服のえりを、恵子の親友、香西美奈子はぐっと引っ張る。
「ようよう、姉ちゃん、オレの話が聞けないってか」
「寝させてぇ」
 と泣き声をあげる恵子。
「いいじゃんかよう。つきあえよう。オイラ、ヒマなんだよう」
 そう言いながら美奈子は、恵子の制服の背中に、冷たい手を差し込む。文字で書くと「にひょほほほ」に近い声をあげて、恵子はがばと起き上がった。
「ば、ばかものっ」
「眠れなくて死んだ人はいない。話を聞くっ」
「いると思う…」

 恵子がさっきまで突っ伏していた机に、ぽんと飛び乗って腰掛けた美奈子は、こう言った。
「スピードマンが出たらしいよ」
「えっ、また」
「うん、佐脇が言ってたよ。日曜日、梅田でへんなのと戦ってたって」
 佐脇というのは、クラスメートの佐脇源太郎のことだ。美奈子とは家が近く、恋人というのではないにせよ、わりあい親しく付きあっているらしい。
「佐脇君が。へえ。見たんだ。スピードマン」
「ビッグマン前で、相手はなんだかでっかい携帯電話の着ぐるみみたいなヤツだったって」
 どうしたことか、スピードマンに関する情報は、意外なほど少なかった。半年ほど前から、数日に一回ほど、どこかに現れてはなにかと戦っているらしい存在。あの巨大な蛾の幼虫の一件を除き、被害を受けた人も、スピードマンの姿を実際に目にした人も、あまりにも少なく、テレビカメラに姿をとらえられたこともほとんど無かった。大阪の住民の間では、都市伝説にも似た噂にのみ高い存在だったのである。正体はもちろん、目的も、善なのか悪なのか、ただの愉快犯なのかもわからない。ただ、その名前だけは、口伝えに、広く知られるようになっていた。――スピードマン、と。
「で、どうだったの」
「どうって」
「どうなったの」
「…さあ。よく見えなかったとか言ってた。佐脇に聞いてみる?」
「ううん、いい」
 どうして美奈子がこんな話をするかというと、決まっている。初めてスピードマンを海遊館で見てから、クラスで一番スピードマンのことを話題にしてきたのは恵子だからだ。あのときはスピードマンのことをずいぶん悪く言った恵子だったが、それから数ヶ月が過ぎて、彼女のスピードマンに対する関心は、やや好意的、というところまで回復していた。なんといっても、通天閣の一件が大きい。
「ふぁ」
 あくびをした恵子は、閉じた目で美奈子の方を見た。とにかく、眠気が、がまんならない。
「ありがと。おやすみぃ」
 と、机の上の美奈子を押しのけようとする恵子。美奈子は意外なほど素直に、するりと床に降り立つと、言った。
「あー、残念。ケーコさん、時間切れのようですな」
 扉が開き、担任が入ってきた。

 絶望的な目で時計を眺める恵子を残して、美奈子はさっさと自分の席に戻っていった。教壇につく担任。委員長が号令をかける。起立、礼、着席。
「あー、ホームルームをはじめるバグ。欠席者は、あー、田口が休みバグね。風邪が流行っているそうだから、みんなも気をつけるバグよ」
 はぁっ。バグ?恵子は、半睡状態の目をぱっと見開いた。そこはかとない、違和感。違う。あれは、顔はそっくりだけど、担任の東郷先生じゃない。恵子はとっさに周りを見回した。クラスメイト達も怪訝そうな顔で担任の顔を見ている。東郷、そのギャグ、おもしろくねえよ。
「えー、先生からのお知らせは特にないバグ。そうだ、各務、ちょっと進路のことで相談があるバグ。一時間目の前に、ちょっと進路指導室まで来るバグ」
 と、左翼端一番前という席にいる恵子に向かって手を差し伸べる担任。駄目だ。違う。恵子は、その手から逃れるように立ち上がり、後じさりした。教室が騒然とする。
「だだだだだ、だれが」
「なにバグか、先生の言うことが聞けないバグか」
 全くの無表情で、そう言う担任。
「せせせ、先生は『バグ』なんて言ったり」
 さらに一歩、後じさりする恵子に、担任は舌打ちをした。
「ちっ、バグ。ばれちゃあしょうがないバグね。じゃあ、力づくでも来てもらうバグ」
 グレーのスーツに包まれた、小太りの東郷教諭の肉体が、その一瞬、さらに膨れ上がったかと思うと、服や肌の色がかき消すように青の中に消え、顔の造作が溶け落ちた。手が、足が、崩れるように巨大なかたまりのなかに埋没する。わずか数秒、その後にそこにあったのは、全長二メートルはあろうかという、巨大で半透明な生き物だった。足がいくつもある、奇怪な深海生物。
「ばけものっ」
 と、バグチェンジを間近に見たショックに声も出ない恵子に代わって、クラスの誰かが叫ぶように言った。
「ああ、いいリアクションだバグっ。俺の名はセンジュナマコバグだバグっ」
 体を震わせて、嬉しそうにそう「言」ったセンジュナマコバグの不気味な声におびえ、クラスメート達が席から立ち上がる音で教室が満たされる。あるものは教室から逃げ出し、あるものはただその場に立ち尽くす。恵子を救おうとしてか、彼女の方に向かうものもいる。あれは、美奈子だろうか。
「さあ、一緒に来るバグ、各務恵子」
 触手というのか、その一本をするすると恵子に向けて伸ばすセンジュナマコバグ。と、その時。

「待てっ、そこまでだセンジュナマコバグっ」
「バグっ、その声は」センジュナマコバグの半透明の体が大きく震える。
「スッピードっ・マァァン!私が来たからにはもう安心だっ」
 扉をがらりとあけて、駆け込んできた、銀色の男。おお、というクラスメート達の歓声。
「うんうん、いいリアクションだ。ゆくぞっ、センジュナマコバグ。覚悟しろっ」
「ばばば、バグっ」
……

 ……そして、放課後。
「どうしたの、恵子。そういえば、なんかずっとあの人のこと、見送ってたね」
 と、なんとなくぼうっとして、窓の外など眺めていた恵子に、美奈子が言った。
「そ、そりゃあ。でも、なんか」
「うーん、何か、ぼっとしてるなあ。ケーコ、それって、恋?」
「えっ、ば、ばかものっ」
 それはそうだ。いくら危機を救ってくれたとはいえ、詳しいことを何も知らない、しかもあんな銀色の超人に恋などできるものではない。しかし、だとすれば、いったいこの胸の高鳴りはなんなのだろう。なにかもどかしい、そしてどこか危うい、恐怖のような感情とともに込み上げてくるものは。恵子は未知の感情に戸惑うしかなかった。

<次回予告>
「ども、みなさん。各務恵子です。作られた平和、消えない傷跡、そして失われた記憶。スピードマンと私の間にいったい何があったのか。獣人帝國とは、スピードマンとはいったいなんなのか。次回は『恵子の恋(後篇)』。いま、物語が動き始める、と言っても過言ではない。じゃね」


目次に戻る> <第一八話