第一九話『ピンチ!奪われた万歩計』

 なぜか各務家のお風呂が故障した。とりあえず修理屋を呼びはしたものの、なかなか故障は根深く即日復帰は不可能であることがわかる。すんません明日また来ます、と言い残して帰ってゆく修理屋を見送って、その日の汚れを落とさなければ落ち着いて眠れないタチである各務は、恵子を連れて銭湯へ向かうのだった。そしてそれを物陰から見る、背の低い、ハンチング帽を目深にかぶった男。
「ふっふっふ。読み通りだバグ。スピードマン各務剛志、お前は今死地に向かって自ら歩んでいるんだバグ。クックックッ」
 危うし、スピードマン。

「じゃ、三十分後な」
 と恵子と言い交わした各務は、入り口で料金を払うと、近所の風呂屋ののれんをくぐった。大阪でも比較的古い町並みが残る下町であるこの辺りでは、かろうじて昔ながらの銭湯が残っているのだった。学生時代、風呂がない下宿に住んでいた各務にとっては、銭湯は久しぶりではあるがさほど珍しい体験でもない。脱衣所で服を脱いで、洗面器を小わきに抱えて風呂場の扉を引き開けようとしたところで、各務のあまり鋭くはない第六感が危機を告げた。あれ、あの客は。
「このロッカーバグね」
 甲高いこの声に、各務は振り返る。各務の使ったロッカーの前にいる、あの茶色の全体にぬめっとした感じの体表を持つ小動物は。
「バグっ」
 ばき。ロッカーの扉を、ちゃちな鍵などものともせず無造作に引き開けた小動物――いや、バグノイド「カワウソバグ」――は、中に入っていた各務のズボンを、取り付けられた変身万歩計ごと引っつかむと、銭湯の出口に向かって駆け出した。
「あっ、待てっ。泥棒っ」
 慌てて追いかける各務。番台の横をすり抜けて出口から駆け出すカワウソバグ。手に持ったバスタオルをともかく腰に巻き付けてそれを追う各務。

「くそっ。逃がしてたまるかっ」
 からんからんからんからん。その辺に放り出してあった誰のともしれない履き物を突っかけてきた各務の足もとで、下駄が鳴る。その五メートル前をズボンをくわえて走るカワウソバグ。
「はんぽへいのはいおはえなどおほるるにはらんわ。ほほまへひへみろ、ふひーどはん。いは、はがみふよひ」
「ちゃんと喋れっ」
 カワウソバグの走行速度はかならずしも速いとは言えないものの、入り組んだ住宅地の中を駆ける盗人に、なかなか各務は追いつけない。はき慣れない下駄も、腰に巻いて右手で押さえたタオルも、各務の負担となっていた。
「ぜっ、ぜっ、ぜっ。ごほごほごほ」
 真っ赤になった各務の体から汗が飛び散る。日ごろの運動不足がたたり、早くも息が切れはじめる各務。悠々と逃げ続けるカワウソバグ。果たして、変身万歩計はこのまま盗まれてしまうのか。
「ふっ。ぐっ」
 ついにある街角で息絶えるように立ち止まる各務。振り返り、にやりと笑うカワウソバグ、その口にくわえたズボンのベルトで、変身万歩計が一万と十二を指していた。
「スピード、アップ」
 そうつぶやく各務を閃光が覆う。驚いて口元の変身万歩計を凝視するカワウソバグ。まさか、そんな。
「スッ、ピーィィドっ、マーァンッ。さぁん、じょうっ。よくも好き勝手やってくれたな、カワウソバグっ」
 何事もなく変身を終えたスピードマンがそこにいた。ぽかんと口を開けたカワウソバグから、グレーのズボンが地面に落ちる。
「ど、どういうことだバグっ。どうして変身できるんだバグっ」
「はっはっは。教えてやらんっ。知らずに死ねっ。SSSブレードっ」
 解説しよう。スピードマンの変身をつかさどるデバイスである変身万歩計は、各務の体の内部のナノマシンと密接な関係にあり、彼の体調を常にモニターしている。ナノマシンの発する信号と各務の音声コマンド「スピードアップ」の有効距離、七メートル以内に変身万歩計が存在していれば、そして各務が一万歩に相当する十分な運動をしているとナノマシンと変身万歩計が判断すれば、スピードマンは変身が可能なのだ。
「そ、そうだったのかバグ」
「地の文に納得するなっ。喰らえっ。イズナ落としっ」
「ぐはっ。俺はっ。カワウソだバグーっ。獣人帝國バグー、万歳っ」
 自爆したカワウソバグを残して、各務は銭湯に向かって走り去る。こうして卑劣な獣人帝國バグーの野望は、スピードマン各務剛志の日々の努力の前についえ去った。しかし、これでバグーが滅んだわけではない。戦え、スピードマン。最終回に向かって、走れ、スピードマン。

「遅いっ」
 ちょうどそのころ、銭湯の前では、洗い髪が芯まで冷えた恵子が、小さな石鹸をカタカタ鳴らしていたのであった。

<次回予告>
「やあ、みんな、スピードマンだ。寒いのも道理、実は、劇中ではまだ二月のはじめなんだ。実時間では三月も終わろうとしているけど、みんなは暖かくしてカゼなんか引かないようにね。お風呂上がりには、うろうろしないで暖かくして寝るのがいちばんだ。さて次回は『卑劣!ブラックウィドウの罠』。バレンタインの甘い罠がぼくを襲う、と言っても過言ではない。じゃっ」


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