第二〇話『卑劣!ブラックウィドウの罠』

 誰が何と言おうが二月一四日である。妻、量子に先立たれ、娘と二人、二度目の独身生活を続けている各務は、寂しいバレンタインを送ることになるはずだった。結構あれでいいところまで行っていた桃谷登紀子にも、あるときバグノイドにかまけて待ち合わせをすっぽかしたことから、なんとなく疎遠になってしまっている。そんな出来事も彼の、獣人帝國バグーと戦うモチベーションになっていたのであったが。

「お、おや、おやおや」
 昼休みの後。各務は、自分のデスクの上に、一通の手紙とともに大きなチョコレートを発見した。横のデスクで、押さえきれない興味を隠そうともせず、同僚の都築が各務に言った。
「あ、それ、今置いていったところですよ。各務さん。新人の、ほら、三矢ですよ。いや、隅に置けませんね」
 三矢、とは、派遣会社からの助っ人プログラマーとして各務の職場に現れた女性、三矢麗子である。同じ「ワタナベクリエイト」社内とはいえ、各務や都築とは直接の仕事上のつながりはなく、派遣されて日の浅い彼女について、各務たちは知るところが少ない。それどころか、各務に関して言えば、これは奇麗な子が入ってきたな、程度の認識だった。つまり、三矢麗子と各務は、とてもバレンタインの贈り物をもらうような仲ではないのは確かである。
「ま、モテる男は辛いよ、というところだな、うん」
「よしてくださいよ」
 適当に都築をあしらった各務は、隠すようにしてごそごそと手紙を開いた。
(各務剛志さま。突然に、贈り物なんかしてしまってすいません…)
「怪しい」
 と各務は反射的につぶやいて、都築の方を見た。既にヘッドホンで音楽を流しながら、端末に向かって仕事を始めているようで、各務の小声に気付いた様子もない。いや、しかし、三矢麗子のような女性が、そんな馬鹿な。手紙を読み進む各務。
(…ひと目見たときから、なにか懐かしいような、不思議に安心する人だと思っていました…)
「これは、絶対に、怪しい。怪しいが」
(…ずいぶん悩んだのですが、思い切ってバレンタインに、勇気を出して、チョコレートと手紙をお渡しすることにしました…)
「怪しいが、獣人帝國からの刺客なんじゃないかと思うんだが」
 チョコレートをとりだして、一口食べる各務。娘の恵子が大きくなった今、菓子を買い求めることも少なくなった。チョコレートは久しぶりである。各務は口いっぱいに広がるカカオの香りを楽しんだ。甘い。
(…あなたの事をもっと知りたいのです。もしよろしければ…)
 各務は、手紙を畳むと、ポケットに入れた。
「とりあえず、待たせるのは失礼というものだろうな。よし行こうすぐ行こう」

「ぐあああああっ」
 その日の真夜中。大阪市内の某ホテルの一室で、スピードマン各務剛志は、悲鳴をあげていた。
「だだだっ、騙されたっ」
 うまく言葉が出てこない各務。それをベッドの上に、しどけない様子で横たわり、見ていた三矢麗子が、言った。
「今ごろ気がついたの」
 くすくす笑う麗子。そこには、さっきまで各務とともに大人の雰囲気のバーで、カクテルグラスを傾けていた彼女の面影は既になかった。
「おおお、男だったのかっ」
 そう、描写はあえて避けるが、各務は、さあこれから、というところで、そのことに気がついたのであった。本来ないものがあるのは、とても怖い。あるべきものがないよりも怖い。
「はっはっはっはっ。そうとも。それだけじゃないぞ」
 偽装を脱ぎ捨てた麗子の背中から、一対、さらにもう一対の、剛毛を備えた「脚」が、生え、形を整えつつある。そして、整った顔を、二本のナイフのような牙が、人間に似た、別のものへと変えた。クロゴケグモバグ。この、ある到達点に達した感のあるバグノイドが、狭いホテルの一室でバグチェンジを完了しようとしている。
「スピードアップっ」
 鞭のような素早さで繰り出された攻撃を、間一髪避けた各務の、変身のかけ声が響く。が。
「駄目かっ」
「さっきまであれだけ飲んでいたんですもの、当然でバグ?」
あえて太い声でそう言って笑うクロゴケグモバグの脚をかいくぐり、脱ぎ捨てられたズボンをひっつかんでドアに向かって走る各務。だが、扉には当然鍵がかかっている。どうする、各務。
「でやあっ」
 各務は勢いを止めることなく、そのまま、思いっきり部屋のドアに蹴りを入れた。大きな音がして、鍵がドアから外れ飛び、扉があっけなく開く。
「解説しよう。このホテルは、見かけより、安普請なのだっ」
 そう言い残して、後ろも見ずに駆け出していった各務を、クロゴケグモバグは慌てて追う。

 十数分後、ホテルの屋上で、クロゴケグモバグとスピードマンは対峙していた。
「よく奇襲をかわし、ここまで逃げとおしたバグね。褒めてやるバグよ、スピードマン。でも、ここがお前の、墓場バグ」
 ホテルの内外を駆け回り、いろいろとここには書けないところを覗いたりしてしまってバツの悪い思いをしたりしながら、ようやく失った歩数を稼ぎだした各務は、息が上がっているが、かろうじてスピードマンへの変身を終えている。
「も、もう」
「なにバグか、言いたいことがあれば、聞いてあげるバグよ。自分で言うのもおかしなことバグが、このクロゴケグモバグこそ、獣人帝國バグー、最強のバグノイドと言われているバグ。どうあがいてもわたしの必殺技『ボビン・フッド』からは」
「もう喋るな」
 突然、スピードマンの右手に、輝くSSSブレードが出現した。精神が、肉体の限界を超えることがあるとすれば、それは、魂の慟哭とでも言うべき、激しい怒りと深い悲しみこそが、その引きがねとなるものかもしれない。そして、この夜のスピードマンは、何かを超えていた。

「どうしてアダルトサイト運営者宛のメールが来るんだバグーっ」
 わずか、わずか数秒後。悲痛な叫びを残し、自爆したクロゴケグモバグ。それをじっと見つめる銀色の戦士スピードマンの目からは、滂沱の涙が流れ落ちていた。本来泣けるはずのないナノマシン成形の超戦士の肉体に、各務の心が流した血の涙が後からあとからあふれ続ける。人生いろいろ辛いことも多いが、生きていればまたいいこともあるさ。泣くな、スピードマン。落ち込むな、各務剛志。だからヤケ酒は体に毒だと言っているじゃないか、超光速流スピードマン。

<次回予告>
「やあ、みんな、スピードマンだ。クロゴケグモって、英語の「ブラックウィドウ」だと格好いいのに、日本語にするとどうしてこう野暮ったいんだろうね。なんかどうしても黒いコケが密生しているみたいな語感なんだけど。さて次回は『不況のスピードマン』。不況も出口が見えてきたというのにこんな話だ。なんか場合によってはかなりシャレにならないと言っても過言ではない。じゃっ」


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