第二一話『不況のスピードマン』

 赤を基調として飾られた、壮大な規模の地下宮殿。秘密結社「獣人帝國バグー」の秘密基地は、大阪湾の海底深く、地球の歴史そのものに忘れられたかのような空洞の中にあった。鋼鉄とコンクリート、そして人類のそれを超越した技術によって、基地は地上のものとまったく変わりなく、そこに存在している。梅雨時に湿気をとってもとっても床からわき出してくるどこぞのアパートとは違うのである。

「獣人博士、申せ」
 そのひときわ広大な一室、獣人皇帝謁見室では、いましも獣人皇帝バグエンペラーが、玉座から配下の獣人皇后、獣人博士、そしてバグメイト、バグノイドたちを見下ろしながら、告げた。ほんの子供のように思われる背丈と声色は、しかし決してその年頃の子供にはない、底冷えのするような冷徹さと、侮るべからざる知性を感じさせるものであった。
「は、ははっ」
 玉座から数メートル、二段ほどの階段の下の、赤い絨毯の上にべったりと平伏した、こちらも小柄な人影は、しかし、老いを隠せないしわがれた声で、やっとそれだけを言った。獣人博士である。丈の長いローブでほぼ全身を覆った彼の表情は依然として見て取ることはできないが、「焦り」「困惑」といった負の感情が彼の頭上に、目に見えるような濃密さで、広がっている。
「…私のバグノイドたちがなしました、数々の失敗の数々、誠に面目次第もございません…」
 地面に這うように平伏した獣人博士から、空虚な懺悔の言葉が紡ぎだされてゆく。獣人皇帝が座る玉座の左には、人影を傲然と見下ろした獣人皇后がいる。黒いドレスに身を包んだ彼女は、今はだまって、獣人博士のフードの奥を見据えている。
「…特にバグノイドたちに与える『生体培養ロイヤルゼリー』は原価高騰も著しく…十分な資金を与えていただきながら申し上げることはではありませんが…」
「よい」
 果てしなく続きそうに思えた獣人博士の繰り言を、獣人皇帝の凛とした声が遮った。はっと顔を上げる獣人博士。
「余が聞きたいのは、未来だ」
「は、ははっ。もっともなお言葉で…」
「次なるバグノイドはなにか。申せ」
「は」
 獣人博士はまた平伏すると、伸ばした左手で、絨毯の上を指し示した。なにもない。
「モスキートバグにてございます」
「バグエンペラー様を愚弄するかっ」
 と、獣人皇后が、沈黙を破って、叫ぶように言った。
「は、しかし、ちゃんとおります。究極の小型バグノイドであります、モスキートバグでございます。このバグノイドは知能および機能を最低限まで押さえた結果…」
「よい。余には見える」
 と、かすかな笑いを頬に貼り付けて、獣人皇帝がふたたび言葉を遮る。憤懣やる方ない、といった風情であった獣人皇后も、これには黙らざるを得ない。
「期待しているぞ、モスキートバグ」
 羽音が、かすかに高くなったようであった。確かにそこに、一匹の蚊がとまっていた。蚊はふわりと浮き上がると、その意志の在り処を示すように、その場で上下にホバリングを続けていた。獣人博士が、その虚空を見やって、言う。
「出撃せよ、モスキートバグ」
 かすかな「バグ」という声が通気孔からの風の音に紛れて聞こえたかどうか、モスキートバグは戦場へと向かっていった、らしい。
「次なる矢は、用意してあるのだろうな、獣人博士」
 と、感情を感じさせない、ただ冷たい口調で、獣人皇帝が言った。
「ははっ。このモスキートバグが破れました暁には、私みずからが打って出て、やつの首級をば挙げるつもりでおりますゆえ、どうか、ご安心下さい。私には、策がございます。策があるのです」
 獣人博士は平伏していた顔を上げると、言った。表情は伺い知れないが、ただ声色から、得意げな表情が想像されるのだった。
「良い報告を、期待している。これにて、謁見を終わる」

 一方、不況の風は、順風満帆と思えたIT業界にも押し寄せ、各務達の会社「ワタナベクリエイト」もまた、大規模なレイオフを余儀なくされた。ワタナベクリエイト社長、渡辺登志夫に呼びだされた各務は、神妙な顔をして社長室のドアを開けた。ちなみに「ワタナベクリエイト」の場合、社長室は会議室の一角に、パーティションで区切られて作られている。

「各務、入ります」
「各務君。君はクビだ」
 いきなり、社長がそう言った。
「は」
 思わず、はい、とだけ答えてドアを閉めようかと思った各務は、あやうく思いとどまった。心の中はそんな行動をとれるような状態ではない。やはり不要人員だったのか、という思いと、たくさん休んでしまったからな、という思いがまず胸に現れては去り、その後で、これからどうしよう、という思いが、やっと訪れた。田舎に帰って百姓でもやるのだろうか。各務に田舎はないが。
「申し訳ない。詳しくは細井君に聞いてくれ。それから君のデスクは今日明日中になんとかカタしてくれればいい」
 不満はあるかね、という顔つきだったので、各務はついに、理由を聞くのを忘れた。各務は「お世話になりました」とだけ小声でつぶやくと、社長室を出た。動顛していた。ワタナベクリエイトで彼がなした、あるいはなしえなかったさまざまな事どもが、故もなく頭を占めていた。各務は、自分の席(いや、さっきまでそうであった席)に腰を下ろすと、周りを見た。周囲では、何事もなかったかのように、日常の業務が続けられている。
 ぱちん。
 かゆみを感じ、首筋を無意識のうちに手のひらで叩いた各務は、かすかに「ばぐ」という声を聞いたような気がしたが、すぐ、意識の外に、消え去った。各務は、端末の電源を落として、窓の外を見た。することのなくなった午後は、やけに長かった。

 こうして、各務は人間世界での居場所を失った。獣人帝國バグーの刺客モスキートバグは倒されたが(いや、マジで)、いよいよ獣人博士自らがスピードマンの息の根を止めんと出陣する。職がないからといって昼間から酒を飲むな、スピードマン。呑気に水虫の治療をしている場合じゃないぞ、各務剛志。とりあえずちゃんと職を探せ、超光速流スピードマン。

<次回予告>
「やあ、みんな、無職のスピードマンだ。でも、良く考えたらとりあえず失業保険があるから連載終了までは悠々自適ってことかな。ちなみにぼくは、実はポレポレからお給料をもらっているんだけど、ポレポレの星の通貨『エモネ』建てなので大阪では使えないんだ。国交無いからね。さて次回は『恐怖!宇宙人バグ登場』。スピードマン最大のピンチを、いま君は目の当たりにする、と言っても過言ではない。じゃっ」


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