ある朝突然に

 そういう場面に出くわすとは、考えたことさえ無かった。その強烈無比な想像力、どの位強力かというと、小学校に入った途端、隣に座っていた女の子と結婚して幸せな家庭を築き「お帰りなさい、あなた」なんて言われちゃってる場面を想像したくらいであるのだが、そういう想像力をもって知られる私である。意表をつかれる事態に出くわすことなどひどくまれなことなのだ。むしろその想像がめったに現実化しないということの方が問題なのだが、それでも時として予想外のケースは訪れる。

 目が覚めたら、家のなかが水浸しだったのだ。いや、水浸しなどというものではない。水の中にベッドがある、といったほうが正確だ。玄関の扉のすき間からごうごうと水が流れ込み、昨夜その辺に脱ぎ散らかしておいた衣服が、ぷかぷかと漂っている。ふと、「床上浸水」という言葉が胸に去来した。ああ、これがそれか。浸水具合は床上十数センチというところだが、流れ込んできた水は泥で濁っており、もはや畳は見えない。あはは。床上浸水だよ。

 思えば、昨夜は雨であった。夢うつつにトタン屋根を雨がたたく音を聞いたような気がする。夜の間の集中豪雨に、下宿周辺の排水能力が限界に達し、このありさまになったものだろう。学生向けのぼろアパートだという認識はあったのだが、まさかこのような仕打ちに会うとは思わなかった。

 せん方無く、私は部屋を観察した。普段暮らしていると、ベッドの下、テレビ台の裏、タンスのすき間などにいろいろな物がたまっていくものである。コンビニの袋、仕掛けておいたゴキブリホイホイ、読み捨てた雑誌等々。そうした暮らしの垢のような、澱のような品々が、寄せては返す濁流にその隠れ場所を暴れ、部屋の中央を我がもの顔でたゆたっている。ああ、あれはスリッパだ。片方なくなったんだよな。お、隠しておいたビデオテープじゃないか。ビデオテープって浮くんだな。

 とにかく脱出しようかな。そう決断しかけて思い止まった。考えてみれば、この水は相当得体のしれない水ではないか。雨水が主成分であることは確かだが、そこにいろいろなものが溶け出している。最も厄介なのは下水であろう。昨日出したものとかが、その辺に混ざっているはずなのだ。そのうえ、トガったものが水中に転がっていないとはだれにも保証できない。足の裏に庖丁がぶっすり突き刺さって、そこに下水がざばー。い、嫌だ。破傷風必至ではないか。そう考え出すと、ざぶざぶと水をかき分けて表に出ることはとてもできなくなった。幸い、いまのところこれ以上水位が上がる気配もない。しばらくこのまま様子を見ることにしよう。

 実は大阪でこのような事態になったのは二度目である。一度目は、今とは違う下宿で、秋の台風シーズンだった。夜半、あまりの強風にカワラが天井ごと引っさらわれてしまったのである。夜中のことでもあり、いかにも打つ手無く、ふてくされてベッドに仰向けに寝ころんだ私は、ドウドウと雨の降り込む天井を見つめてある境地に達していた。所詮この世は夢まぼろしである。松尾芭蕉も言っている。衣服は破れておらず、宿は雨漏りしないことをもってよしとすべきであると。ということは、これはもはや宿ではないわけだが。

 あのときは、結局消防署が、天井に張るビニールシートを持ってきてくれたのだったなあ。再びベッドで寝転んだ私は思った。ケガもしていないのになぜだか知らないけど、救急セットも置いていったっけ。あれはこの前鼻血が出たときにやっと使った。「小さな貧血大きなお世話」とはこのことか。まったく、あれで二階は懲りて一階の部屋に移った途端にこれだよ。次は三階建ての二階にするかなあ。地震で真ん中だけ崩壊したりして。

 もともと昼くらいまで寝るつもりだったので、寝転ぶとすぐ眠気が襲ってきた。私は自分の欲望に正直である。眠ることにした。どうせ起きていてもすることはない。気掛かりは、今度起きたときには口元まで水がきていやしないかとうことであるが、それよりも消防署に救助される、それだけは避けたい。寝ているところを救助されるのは。「眠っていて気がつかず」と新聞に書かれるのは。

 私の強固な想像力のなせるわざとはいえ、あまり考えたくはない話である。


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