朝つけたテレビが面白いことを言っている。明日は立秋、暦の上ではもう秋なんですね。ははあ。もう秋ですか。今日は八月七日。夏まっさかり、といいながら今朝は埼玉ではわりと涼しかったりするのだが、とにかく一般には夏である。もっと言えば、まだまだ夏はこれからという時期だ。大体まだ海にも行っていないのである。勝手に秋が来てもらったら困る。
暦の上では。
この台詞、立春や立秋などがまわってくるたびにテレビによって使い古されてきた言葉だが、昔の人は気が早かったのだなあ、とか、旧暦と新暦で違うからだろうとか、あまつさえ、地球温暖化はここまで進んだんだなあ、とか思ってはならない。「ふふん、一般人は暑さにあえいでいるところだろうが季節に敏感なおれ様などはもう朝晩に秋の訪れを感じてしまったりなんかしちゃったりなんかして」と人よりずっと早く言うことが格好良かったのだ、という解釈も誤りである。実は立秋などが来たぐらいでは、暦の上でさえちっとも秋ではないのだ。「暦の上では秋」という言葉自体が嘘なのである。
それはなぜかを説く前に、まず「立秋」とはなにかを説明しなければならない。下の図を見ていただきたい。二十四節気とよばれる暦と、現行の太陽暦を突き合わせたものである。ご覧のように、二十四節気とは、昼と夜の長さが等しくなる春分と秋分を基準として、一年を二四に等分した暦だ。春分と秋分は、要するに一年に二回地球の自転軸が太陽−地球と垂直になる瞬間なので(だから正確には二十四節気はそれぞれある瞬間ということになるが、便宜上それを含む一日としているようである)それぞれの節は地球の軌道上のある一点してきっちり決まる。一年を二十四等分と書いたが、三六五日ではなく、三六五.二四二二日を二四等分しているのだ。春分と秋分が、日本では祝日だが、大体四月と九月の二十三日ごろと決まっているだけで、年によってふらふらと定まらないのは、これが原因である。
さて、ご覧のように二十四節気にはそれぞれ固有の名前が付けられている。「啓蟄」について校長先生から聞いたことの無い人は忘れているだけだと思うが、そういうよくうわさを聞くメジャーなものもあれば、全然聞いたことのないマイナーなものもある。簡単なほうから行くと、まず上でも書いた春分、秋分。それぞれの中点で、昼がもっとも長い/短い日である夏至、冬至。さらにそれぞれの中点である立春、立夏、立秋、立冬である。システマティックに命名されているのはここまでで、あとの一六個は雰囲気で名付けた、といった感じの名前が入っている。小満ってなにが満ちるのだろうか。清明って、安倍清明?陰陽師の。
で、問題はこの「立秋」である。八月の上旬という、いかにもこれから暑くなるよ、という時期に存在している。この「秋」の字を見て、暦の上では秋、という言葉が出てくるのだろうが、次に目をむければ誰でもわかるように、八月下旬には「処暑」が控えている。処暑は、暑さがやっと一段落し、過ごしやすくなるという意味なので、要するに暦の上でもそのへんまでは暑いぞ、ということを言っているのだ。立秋、立春などと言われているのは、あくまで上のように機械的に名付けた結果なのである。
みなさん。テレビや新聞がなんというか知りませんが、まだ夏はこれからです。そもそもテレビは気象関係のこととなると、嘘をついてもいいと思っているところなのです。頑張って海や山に出かけて景気浮揚の一翼を担ってください。
しかしまあ、実際のところこの暦、全体にやや気が早い目のような気はする。暦が人々の実感よりも遅く来るようであれば意味がないので当たり前だが、最初に作った人に「秋の訪れを感じてしまったりしちゃったりなんかして」という衒いがないとは言えないだろう。もちろんこの暦は広川太一郎が決めたわけではないので勘違いしないように。などと書くと、えてして読者の頭には「広川太一郎かあ」という印象しか残らないものだが。