秋田はどうだ

 関西の人間は東北のことを良く知らない。一般的な関西人の想像力は、せいぜい東京止まりであり、そこからさきについて知っていることは非常に少なくなる。試しに東北地方の白地図を与えられたとして、そこに県名を書き込むことが、あなたにはできるだろうか。もっとも、これはお互い様であって、東北地方の人間が中国地方について知っていることも、似たようなものなのだろう。仮に日本地図を名古屋で折り返して重ねたとして、秋田県に当たるのは島根県ということになるが、しまねけん。あはは。島根県について知っていることがほとんどないことに気がついて焦る私であった。一応兵庫県出身なのだが。
 こんな私であるから、秋田県に出張せねばならない、となったとき、秋田新幹線に乗ってゆけばいいのだな、程度の知識しかなかった。それがどこをどう通っているか、というようなハードな知識となると正直言ってまだよくわからない。

 さてこの秋田新幹線であるが、東京駅を出発するときはなんと東北新幹線に連結されている。前から一〇両くらいの車両が東北新幹線「やまびこ」で、あとの六両ほどだけが盛岡で切り離され、秋田に向かう「こまち」なのである。例えて言えば、東海道新幹線の一部が福知山線に乗り入れて豊岡を目指すようなものだろうか。それでいいのか秋田新幹線。ほとんど他人の路線を走っておるのではないか。
 路線のことは良しとしても、「こまち」という名前はいかがなものか。秋田小町にちなんでということなのだろうが、これは美女の代名詞として使われる平安朝の女性、小野小町の秋田版ということであって、要するに地方の繁華街を指して「〜銀座」と名付けるのと用法としては変わらない。それをつづめて「銀座」と言ってしまってはちょっと違うのではないか。大体が「この土地には美人が多い」という命題からして、言ったもの勝ちではある。
 そういえば「こまち」の車両の中には「あきたこまち」という米の広告が出ており、「美人を育てる秋田米」というコピーが記されていた。そんないい加減な根拠に立脚して物を言って、恥ずかしくないのかあなたたちは。

 私にはひとり、東北地方出身の友人がいる。彼は普段まったくの標準語で話し、東北出身らしい言葉を聞いたことはない。むしろ最近では怪しげな関西弁を使いはじめており、関西弁原理主義者には許しがたいことだったりするのだが、どうして彼が東北弁を使わないのか、今回の旅で謎が解けた気がした。東北弁などだれも使ってはいないのである。意外に思うかもしれないが、秋田市をうろうろした限りでは、街で訛りを聞くことはほとんどなかった。そのあたりを歩く高校生の会話を聞いていても、まったく訛っていないのだ。商店などでの受け答えもきれいな標準語である。ベタな東北弁というと、土地のひとが時間を潰しにくるらしい喫茶店で、老人と言っていい年代の人たちが話し込んでいるところでやっと聞けたくらいである。うかうかしていると、何十年か後には東北弁はなくなってしまうかもしれない。
 まあ、数日で通過しただけの旅行者の無責任な感想なので、本当のところはどうかわからない。地下では一大勢力を保っているのかもしれないし。

 忙しい出張だったので、観光する暇が無く、ちょっと街を散歩しただけだが、強く印象に残ったことがひとつある。散歩の途中、本屋があったので入ってみた。どうも旅先でわざわざ本を買ってしまうのが私の悪い癖である。どこででも買えるようなもので荷物を重くしてしまうのだ。買った本が、またどうでもいい本ばかりで、たとえば清水義範の「バールのようなもの」であったりする。それはさておき、代金を払うときのことだ。
「千二百三円になります」
「はい、ええと、三円あります」
 小銭入れを探った拍子に、ポケットに入れていた自転車の鍵が落ちた。すると、私より先に本を買って、まだそのへんで新刊本を眺めていた見知らぬ女の子が、ぱっと振り返って、
「鍵、なくしたら大変だ。あはは」
 と笑った。ええと、そういう土地なのか。

 しかし、ちょっと美人ではあったな、うむ。


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