韃靼海峡をナニしていった

 ダイエット中である、と書いたら、あちこちから食べずに痩せるというのは体に悪いからよせ、という忠告をいただいた。いやそんなことを申されましても、食べないダイエットというのが一番簡単なのでして。とかなんとか言いながら、今日は牛丼教入信記念ということで仕事帰りに特盛りの牛丼など食べてしまい、怖くて体重計に乗っていないありさまである。関係者の皆さんは心配しなくてもいい。私にそれほどの忍耐力があろうはずがないではないか。

 さて、こんなふらふら坊主にも仕事はある。これまで新人の立場を利用してうまく雑用から逃れていた私だが、そうも言っていられなくなってきた。今回も新しい仕事を仰せ付かり、その手順について先輩から教わることになった。電子メールで送られてきた文章をポスターにして、あちこちに掲示する、という仕事である。
「それで、次にポスターを作るわけだけど、こっちのディレクトリに前のポスターがあるから、これを適当にモディファイして使ってね」
代々新人に受け継がれてきた仕事であるから、すでに仕事のパターンというものが確立されている。
「こんな感じで前のをエディットすればいいから」
開いていただいたファイルを見ると、なにやらコントロールコードがいっぱいに入った書類である。あちゃあ、これはテフというやつではないか。
「…テフですね」
「…テフだよ」
そうなのである。私はテフが使えないのだった。大学では使っているひとも周りにたくさんいたのだが、私は使えないままここまでやってきてしまったのだった。
「…」
「…」
「えーと、実はですね、私、テフが、使えません」
そう告白した瞬間、相手の顔色がさっ、と変わった。
「えーっ。そ、それは。いままでどうやってきたの」
「どう、といわれましても」
「そんな、だって論文の投稿とか」
それでも大学を出ているのか、と言わんばかりである。いや、私が悪いのだが。
「なんか、それでないといけない場面なんてありませんでしたよ」
「いや、そりゃおかしい。ねえ、いい機会だから覚えなさい」

 テフとは、TeXと書く、一種のレイアウト用言語である。文章にコントロールコードを埋め込んでゆくことでレイアウトを指定し、数式を初め、さまざまな様式を記述することができる。テキストに特殊なタグをかましてやって複雑なページを表示できるという点で要するにhtmlのようなものであると考えると理解しやすい。
 htmlがそうであるように、テフを使えばワープロで作るような凝ったレイアウトを施した書類を、テキストの形式で保存することができる。これなら電子メールで簡単に送ることができるし、業界内ならたいてい送り先にもこのテフの環境(全体に無料である、ことが多い)が備えられているので、まず突っ返されることがない。よく電子メールをやり取りしているとマイクロソフト・ワードのファイルが添付されてきて悩ましいことがあるが、この業界ではワードのようにテフがデファクトスタンダードなのだ。実際、学術雑誌では論文入稿なんかでプレーンなテキスト以外にテフのみ受け付けるという場合が多く、テフでの入稿に割引制度が適用される場合もあるらしい(出版側がレイアウトする手間がかからないからだろう)。

 私はこういった場面では今まで、適当なワープロを使ってお茶を濁してきた。たとえば文中で斜体文字を使いたいとする。テフだとその命令を正しい形で打ち込まなければならない。一方、ワープロならメニューから「書体→イタリック」を選べばすむ。なぜにテフのコントロールコードを理解して記憶して正確にタイプせねばならないか。人間に機械の一部となることを強要するものではないか。
 そういえば私は、htmlの時だって、私は「こんなものをユーザーに覚えさせようなどという傾向は絶対に間違っている」と断固として覚えようとしなかったものである。では今この「大西科学」を作るのにどうやっているかというと、実はごく初めのほうだけあるホームページビルダを使っていたのだが、使っているうちに何となく覚えてしまったので、それどころかテーブルや投稿フォームなんかも組めるようになってしまったので、今や普通のテキストエディタでゴリゴリhtmlのタグを書いているのだった。
 いや、面目ない。先程の言に「おおその通りじゃ」とひざを打った方からは「裏切り者」と後ろ指を指されても仕方がないところであろう。いやあ、意外と簡単っスよ。三日で、というのは無理がありますけど。
 話がそれたが、htmlを使えるようになったからといって、いやだからこそ、これをもう一度やる気は毛頭無いのである。テフはhtmlよりよほど難しそうだし。

「いやあ、まあなんとかしたいと思いますので。ええ、なんとかいたします」
あたふたとそう言って先輩の元を辞した私だが、内心では本を買ったりしてテフを覚えようなどという気は全く無かった。コントロールコードを知らなくても要するにレイアウト言語である。htmlがそうだったように、他人の作ったテンプレートの中身だけ変更をかまして使ってやればよいのだ、と思っていたからである。

 さて、この仕事の第1回が今週あったので、やっと私も重い腰を上げた。これ以上遅らせないというところまで何もしなかったというのが世間をなめきっている、かもしれない。鼻歌交じりで先輩からいただいたテフのファイルをテキストエディタで開き、中身をちょこちょこと変更してセーブする。ここまでは予想どおり、なんの問題もなかった。

 で、どうやってこれを印刷したらよいのであろうか。

 あいたたた。そうなのだ。htmlもそうだが、適当なブラウザを使わなければ、テフといえどもただのコードの羅列である。これをポスターに変換するために必要なビューワーは、どこにあるのだろうか。というか、そのソフト、なんていう名前なのだ。(SE:雷鳴)

 その後私が味わったアルゴノートもかくやという艱難辛苦については、ここに記して読者の皆さんを退屈させるのも忍びないので割愛する。なにしろ六年前からやらなければと思いつつもほったらかしにしていた知識を1日でなんとかしようというのである。並大抵のことではないのは御理解いただけると思う。
 関係者の方々なら御存知の通り、最終的に「なんとかした」のではあるが、いやはや。何度マックのワープロでレイアウトし直そうかと思ったことか。「なんとかいたします」と言った以上先輩に聞きにゆくこともできず、百回に近い試行錯誤とどこかの親切な方が作って下さっているウェブ上の解説を見させていただいてなんとか解決を見たのである。いやあ、偉大だなあ、WWWって。

 こうしてできた完成品は、でも何だか少しレイアウトがおかしい。たぶんこの違和感が、私の六年間の無精のつけということなのだろう(って、直せよ、無精してないで)。


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