大西家の一番長い日

 その事件は一本の電話から始まった、という。

 その日、彼らは一箱の小包みを発送した。遠く関東に住む息子へ向けて、秋物衣料といくばくかの食料を詰めた荷物だった。大きさはみかん箱ほど。主な内容物が衣類であるため、見かけに比してさほど重くはない。それでも、一日天日に干され、秋の日をいっぱいに吸い込んだ洋服の詰まったこの小包みは、彼ら夫婦の息子へ向けた愛情の証でもあった。午後三時、その小包みはある宅配便業者に引き渡され、トラックに積まれて運ばれていった。

 電話は、その宅配便業者からであった。いぶかしげな表情を見せつつ受話器に向かって相づちを打っていた妻の表情が驚きのそれに変わる。電話を切った妻は、慌てて夫の元に走り、叫ぶように言った。

「おとうさん、大変よ。今日送った荷物の中から、猫が出てきたんだって」

 それは、宅配便業者が、他の家庭を訪れた時に起こった。宅配便で送られた荷物は、普通一旦集積所に集められて、各方面向けに再配列され、巨大なコンテナに並べ直されて大型トラック、列車などの手段で送られる。しかし、事件はそれよりも前、まだ各家庭に荷物を渡し、また受け取っている時に起こった。他の家庭に届けるべき荷物を取りだすため、手前にあった夫婦の荷物を引っ張り出そうとした時だった。
 荷物の取っ手、運搬時に指を入れる穴のところが垂直に十センチほど裂けたのだ。宅配便業者にとって、そのこと自体は珍しくない。老朽化した段ボールで荷物を作ると、よくこういうことが起こる。しかし、その彼にとっても今回の事件は十分驚くに足ることだったろう。そこから一匹の白猫が飛び出して走り去ったのだから。

 ここで、事の顛末を物語る前に、登場人物を整理しておこう。まず、夫婦。夫婦は5つちがい。夫の方が還暦まであと数年を残すのみ、という年齢である。三人の息子を設けたが、息子たちはそれぞれ自分の居場所を見つけつつあり、彼らの家には住んでいない。老夫婦、と呼ばれるにはやや早いが、そういった季節が遠からぬ未来に訪れるであろう二人であった。
 次に猫。今年で十三歳を迎えた雌の白猫である。二十匹を越える子猫をその生涯において設け、そのうち最も出来が悪かった娘とともに夫婦の家で暮らしている。若いころは「白い彗星」あるいは「殺戮者」の異名で呼ばれたこともある生粋のハンターだった彼女も、老いがその体に影を落とすようになってからは、暖かい場所でゆったりと昼寝をする丸い猫となっている。その寝顔は、楽しかった戦いの日々を思い返しているかのようである。名前を、ゆき、という。
 あとはさほど重要ではない。宅配便業者、蒲原隆文(仮名)。彼は、基本的に善意の人である。夫婦の荷物が部分的に破損したことから、彼の荷物の取り扱いに疑問を呈する向きがあるかもしれないが、箱自体がすでに物持ちのよい夫婦によってさまざまな用途に転用された末のものだったことを鑑み、不問としていただきたい。事件の現場に居合わせた主婦、藤原暢子(仮名)。彼女もまた善意の人である。自宅に届いた宅配便を受け取ろうとした直後、荷台から走り去った猫には驚いただろうが、猫を取り押さえる超人的な反射神経を持たなかったかどで彼女を責めてはならない。息子。彼はこの一件には関係がない。この事件の間、ただ惰眠をむさぼっていたに過ぎない。

 そもそもなぜ夫婦の荷物に猫が紛れ込まなければならなかったかは、容易に想像できる。老猫である「ゆき」は、とにかく四六時中睡眠を欲しているような猫である。また猫族の常として、狭い箱の中を好むことについては猫後に落ちない。そんな彼女が、大好きな箱の中に太陽の匂いのする洋服の山を見て、そこで一時の休息をとろうと考えたとしてもなんの不思議もあるまい。その彼女に気づかずに、箱を封じてしまった妻こそ、責められるべきであろう。

 乱暴に運ばれ、車に乗せられた箱の中で、彼女はさすがに目覚めたことだろう。箱の中は、それほどぎっしりと物が詰まっていたわけではなく、それは彼女にとって幸いだった。彼女は、死に物狂いで明かりを目指して荷物の間を這った。かすかな明かり、それは取っ手のために開けられた穴から差し込む光だったが、そこまで移動して、彼女はそれ以上進めないことを知った。しかし、絶望はしなかった。彼女の豊かな猫生は、ぎりぎりの瞬間を待つこと、チャンスに向けて力を蓄えておくことを彼女に教えていたからだ。

 チャンスは程なくやって来た。蒲原が力を込めて引っ張った箱がもろくも裂け、唐突に彼女は自由になったのだ。ここから逃げなければならない。エンジンの振動と騒音は、彼女にとっていつも不吉な何かを意味していたから。そうして彼女は、荷台から逃げ出した。

 夫婦は、あわてて電話を掛けてきた蒲原の元へ急いだ。蒲原も、藤原暢子も、逃げた猫を無視するほど無関心な都会人ではない。突然の事件に動揺しながらも、その辺りを探し回ってみた。しかし、逃げた白猫はどこへ消えたのか、容易には見つからないのだった。現場に着いた夫婦は、ひとまず蒲原と藤原に謝罪と礼を述べると、後は自分たちで探す旨を伝えた。責任は彼ら夫婦にある。あの猫を見つけだし、安全な彼らの家に連れ帰る責任は。あやまって箱にいれて送ってしまった迂闊さはもちろんだが、なによりもかの猫は息子の猫なのだった。あの十三年前の雪の日、息子がいずこからか連れ帰ってきた真っ白な子猫を、家族の一員として迎えた日から、そして大学生になった息子を彼の新しい住み家へ送りだした日から、それは彼らの責任となっていたのだった。

 彼らは、何度も家と現場を往復し、失われた猫を探し回った。猫の足で我が家まで戻ってきているのではないか、と家を見回しては、また現場を猫の名を呼びながら当てもなくうろつきまわった。現場は山の中である。保護するものがなければ年老いた家猫が何日も生きられるような環境ではない。若かったかつての「白い彗星」ならばあるいは自力で自宅まで戻れたかもしれないが。夫婦は、秋の日が落ち、あたりが暗くなっても、懐中電灯の明かりに一縷の望みを託して探し回った。

 思い掛けないことに、発見の報は、藤原暢子よりもたらされた。長時間の捜索に疲れ果てて、家に戻っていた二人に、宅配便を受け取った家の主婦から電話があったのだった。
 ゆきは、藤原家の床下に潜んでいたのだという。そこにうずくまっていた白猫を発見して、保護したのは暢子だった。夫婦から電話番号を聞いていた彼女はすぐに二人に電話をした。

 こうして、事件は大団円を迎えた。ゆきを受け取った夫妻は、藤原暢子に丁重に礼を述べると、帰路についたのだった。

 結局、この経験を積んだ老猫は、最も正しいことをしたのだろう。我が家へと急ぐ車の中で、ゆきを抱いた妻は思った。猫は、無闇に動き回っても家には戻れないこと、体力を浪費することの無意味さをよく知っていたのではないか。妻はそんなことを思った。思えば、なんという偶然に導かれてこの猫と出会い、そして今ここにこうしていることだろうか。さあ、この顛末を、息子に話してやらなくては。

 白猫は、彼女の腕の中で、何を思ったのか、小さく啼くと、また眠りに落ちた。


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