腕時計が故障した。突然の出来事だった。
時計の故障というと、普通は実に静かなものである。内蔵の電池がなくなったり、どこかの摩擦が大きくなったり、部品が折れてしまったりしたときには、時計は単に停止して、動かなくなる。時計が動かなくなると、まず普通の人は振ってみたり暖めてみたりすると思うが、これは、時計が止まる原因がたいてい摩擦に起因するものだからである。ちなみに、テレビが映らなくなったときに叩いてみるのは、接触不良がそれで直る可能性があるからだ、と、中学の時の技術科の先生が言っていたが本当だろうか。そんなことをするのは日本のエンジニアだけだ、とも聞いたが。
しかし、そのとき私の時計を襲った故障は並の故障ではなかった。突如、腕時計のアラームが鳴り始めたかと思うと、時計の長針と短針がぐるぐる廻りつづけて、止まらなくなってしまったのだ。想像して欲しい。ふと時計が鳴っていることに気がついて文字盤をのぞき込んだら、針がありえない速さで回っているのだ。時計というものは、普段時間の経過を私たちに教えてくれるものだけに、それが狂うと、自分の周りの時間そのものがおかしくなったような印象を受けてしまう。今回は、時計が回るしアラームは鳴るしで、誰かが対になった紋章の指輪を私の腕時計にはめ込んだのだろうかと思った。って「カリオストロの城」じゃないんだから。
パニックになって、時計のボタンをあちこち押したが、時計は止まらない。が、やがて、アラームの音が静かになって、針も止まり、私の腕時計は永遠の眠りについた。別にダムの水が引いて遺跡が現れたりはしなかった。
私は小学生のころ、オルゴールを分解したことがある。ネジを巻いて音楽を鳴らすと、中で羽根のような部品がぶんぶん回っていた。この羽根はバネから歯車を介して動力を与えられているが、別にオルゴールの音に関係しているわけではなく、他の何かに繋がっているわけでもない。いったい何のためのものか疑問に思ったものだが、試しにその羽根を装置から取り除いてみてはじめてわかった。オルゴールの「ドラム」、針がついていて鉄琴を弾く円筒形の部品が、えらい勢いで回転するようになったのだ。これだけ速いと音楽にもなんにもならず、ピアノの鍵盤を全部いっぺんに弾いたような、ひとかたまりになった音がして、止まる。どうやらこの羽根は、空気抵抗でゆっくりとしか回らないことを利用して、ドラムの回転速度を制限していたものらしい。エアロブレーキだったのである。
考えてみれば、時計の針がぐるぐる回り始めるような故障は、たいていの場合、この羽根がなくなってしまったというような機械的な損傷だろう。だとすれば、中でなにかの部品が折れたりゆがんだりしているのに決まっているので、時計屋に修理に出す以外打つ手はない。ところが、私はそうは考えなかった。私の腕時計はちょっと特殊な時計だったからだ。
この故障した腕時計は、針で時間を示すタイプだが、実は機械式ではなかった。たとえばこの時計には、あるボタンを押すと、秒を刻んでいた秒針がくるりと回転してある一点を指し、しばらくして元に戻るという機能がある。これは秒針を使って「日」を表示する仕組みである。たとえば、四十六秒のところを指していたら、今日の日付は二十三日という意味になる。こういう動きを機械的なからくりで行おうと思うと、不可能ではないのだろうが、とてもとても高価につく複雑で精密な機構が必要になる。しかし、科学の進歩は、こういう仕組みをごく安価に実現できるようになった。
種明かしは、ステッピングモーターという部品である。これは、ハードディスクやフロッピーディスクの回転部にも使われている特殊なモーターで、信号を与えると正確にある角度だけ回転するようになっている。このタイプの腕時計の中には、このステッピングモーターと、時を刻むクォーツ時計が入っている。このクォーツ時計で時間を測っておいて、一秒ごとに「秒針を回せ」という信号をステッピングモーターに与えてやる。すると針が一秒ぶん、角度にして六度だけ回転する。この繰り返しで針が正しい時間を指すのだ。日付を示したかったら、今の角度を覚えておいて、日付の所まで一気に針を進め、あとでその時間に針があるべき位置までまた針を回してやればいい。
つまり、デジタル時計の時間を表示するために、液晶の文字盤ではなくて、針を使った凝った仕組みの表示板を使っているということである。針時計のくせに、月日がわかるオートカレンダーや、あげくの果てにストップウォッチやタイマーまで入っていたのは、こういう仕組みだったのだ。正式な用語か、登録商標かわからないが、この仕組みのことを「クロノグラフ」というらしい。本当に高級な時計はちゃんと機械で針を動かしているから、一種のまがい物といえなくもない。
こういう事情があったので、私の時計の「故障」は、せいぜい中のコンピューターが暴走したくらいのことだと思っていた。時計屋に「突然針がぐるぐる回りだして、そのあとぱったり動かなくなった」というと、そりゃもうだめです。お引き取り下さいと言われるかもしれない。そこで、時計屋に持ってゆきはしたのだが、ずるく「電池が切れたみたいなんです」とだけ言って電池交換を依頼した。もしかして、ただ電池の電圧が下がったせいで、動きがおかしくなったのかもしれないからだ。
だめだった。一時間後、時計屋に戻ってきて聞いてみると、「電池を換えたけど、動きません。お代は要りませんが、修理に出しませんか?」と言われてしまった。さあ、修理だとどうなるだろう。故障が時間測定部分と、表示板部分のどちらにあるかというと、やっぱり時間を計っている、コンピューターのある部分だろう。そうでなければぴいぴいアラームが鳴ったりしないと思うのだ。おそらく修理は高くつくにちがいない。買い替えたほうがいいのじゃないか、と思った。
それで、私がいまどうしているかというと、新しくこんな時計を作って使っているのだった。はい。馬鹿ですね。