十八インチは四六サンチ

 そのとき私たちが乗っていた自動車は相当なボロだった。もう何年もワックスをかけていないボディや、ガムテープで修繕されたブレーキランプはともかくとしても、何気筒か死んでいるのではないかというエンジンの振動とへたったサスペンションのおかげで乗り心地の悪さは荷馬車のようだったし、定員四名のところ七名を詰め込んだりすることがざらだったのでエンジンパワーの無さがなおさら強調され、急坂を登るたびにエンジンがせめて坂を登りきるまで動き続けることを皆で祈ったりするような車であった。ただ一つ救いがあるとすれば、周りにそういう車が結構走っているということだったろうか。何しろそこはアメリカだったのである。

「それにしても、エライ音してますよね。エンジンおかしくなってるんじゃないんですか、これ」
「さあなあ。ま、どうせこんな車買っても50ドルとかやからな。整備する気にならんわ。おっと、ちょっとガソリン入れるぞ」

 私たちは、ガソリンスタンドに車を乗り入れた。御存知かどうか、アメリカのガソリンスタンドは、自分でガソリンを補給させてもらえる。そうすると少し安くなるのだ。おかしいのは、モップと洗剤の入ったバケツがちゃんと置いてあって、勝手に自分でガラスふきをしてもいいことになっていることだ。牛丼屋の紅生姜のように、ガラス掃除はガソリンスタンドにつきものなのだろうか。

「おまたせ。6ガロン入ったわ」
「そういえば、燃費ってどうなんですかね。もう、この車、ガソリンぶちまけ状態とちゃうんでしょうか」
「んー、そうやな、前の給油から一二〇マイルくらい走っとるけど、どうなんやろう」

 これには参った。自動車の燃費というと、ガソリン1リットルあたりの走行距離だが、アメリカ人ときたら、ヤード・ポンド法などを使っているおかげで、これが1ガロンあたり何マイル走れるかということになる。これを普段使っている1リットル当たり何キロメートルかに換算するのは容易なことではない。さらにガソリンの値段はドルで表されているわけで、日本と比べてどのくらい得かを計算しようとすると、もう私の暗算能力では歯が立たない。

 そういえば、インチとフィート、ヤードとマイルというのはすべて長さの単位だが、この間の比率は日本の尺貫法ほどにも論理的ではない。1フィートは十二インチ、1ヤードは三フィートで、あまつさえ、1マイルはなんと一七六〇ヤードなのである。どこから出てきたのだこの数字は。正気か、おまえら。

 アメリカに行ったと言っても観光ではなかったので、この間に何度か、旋盤やフライス盤といった工作機械を使って小物を作ったりもしていた。当然ながら、測定器具や工作機械はみんなインチスケールで書かれている。装置自体の使い方はほとんど変わらないのだが、これには難儀した。あと0.5ミリくらい削りたいな、と思ったときに、どれだけハンドルを回したらいいのか全然わからないのだ。1インチが2.54センチメートルだということは知っているが、では0.5ミリが何インチになるのか、電卓なしではわからない。しかも、0.02インチと計算して、さあ、それだけ削ろうと取り掛かると、機械の目盛は分数、つまり1/64インチとか、3/16インチと打たれているのだった。

 しかし、その工作センター、大型の工作機械が多数そろえてあり、工具も完備したそこを見ると、どうしてメートル法にしないのか、わかったような気がした。とてもこれを全部メートル法に切り替えることなどできない。これだけの投資を全く無駄にして、いまさら単位系を変換するのは非常な難事である。しかし、この先この単位統一作業が、難しくなりこそすれ、簡単になる時が来ることはあり得ないので、たぶんアメリカは歴史の終わりまでフィートとポンドを使い続けるのだろう。
 ただ、そのチャンスがあるとすれば、宇宙空間や他の惑星に人類が進出したときだろう。なにか基地を建設するということになったとき、その計画はきっと国際的なものになるだろうから、メートル法で統一されるのではないかと思う(現行のスペースシャトルに使われているネジはどっちの規格だろう。私は知らない)。ただ、結構見かけるのが、遠未来の宇宙開拓史を描いたSFで、それでもフィートやポンドが使われていることである。反省の色がない。

 とはいっても、私たち日本の科学者だって、いい加減な単位を使い続けていることがある。たとえば、空気の圧力の単位である。メートル法に正しくそって考えるなら、これはパスカルという単位を使わなければならない。1平方メートルに1ニュートン(九・八キログラム重)の力が加わるときの圧力が1パスカルである。普通の大気圧、1気圧は約十万パスカルで、これを千ヘクトパスカルと言っているのはご存知の通り。ところが、真空を扱う研究所では、たいてい気圧を「トール」という単位で表している。これはキシリトールの発明者でもあるミヤケトール氏の名前からきている。嘘である。この「トール」、水銀柱の高さに由来する古い単位で、「mmHg」という単位に等しい。つまり、1気圧は760トールである。

 なぜここだけ単位の不統一が起こっているのだろうか。それは、多分「パスカル」または「バール」が気圧を測る単位なのに対して、トールは真空度(どれだけ気圧が低いか、つまり「良い」真空か)を測る単位だからだろう。
 似たような事例を挙げると、たとえば宝石の重さはカラット、原油の体積はバレルで測る。それぞれミリグラムやリットルを使っていいはずだが、昔から使われていて、かつそれぞれを測定するときに専用の装置を使うという事実が、これらの単位を生き残らせている。
 基本的には「トール」を巡る事情も同様である。真空度を測る装置はトールで値を出すようになっていて、しかもこれで大気圧や水圧などを測ったりすることは絶対にない(原理上、そんな高い圧力を測るものではないのだ)。だから、これでいいのである。

 これを、一種の業界内の隠語であって、あまり上品ではない、と思われる方もいらっしゃることと思う。カラットやバレル(そして、インチやオンスに対しても!)私が抱いている気持ちもそんなものである。しかし、トールで教育を受けて、パスカルではカンが、たとえば、このポンプはこれくらいの真空度になるといった見積もりが効かなくなるとなると、特に問題がなければこのまま使い続けたいな、という気もする。

 異世界を扱ったファンタジーに、創作した独自の単位系を導入することでその世界がいかに異質かということを強調したものがある。単位の違いは、時として言葉の違い以上に異質な世界を描き出す道具となるのだ。今回の表題は、戦艦大和の主砲の口径だが、センチではなく「サンチ」と書くのが特徴である。単位としては同じものなのだがなんとなく戦前戦中の海軍の香りがする単位である。そういう意味では、「サンチ」を使っていた日本、またあるいは、シャーロック・ホームズがいたヤードポンド法のイギリスは、その単位系に関しては完全に思い出の中にあるだけのファンタジー世界になってしまった。しかし、まだそのファンタジーが生き残っているのがアメリカであると言ってもいいように思う。

 この自動車はその後、特に大きな故障もなく、最後には他人に売り払われたとのことである。これもアメリカである。買う人がいるのが、ファンタスティックだ。


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