なんて素敵に財政赤字

 私は煙草をほとんど吸わない。と書いて慌てて言い訳をするが、これはなんとなく今まで吸わないで来たというだけのことで、特にポリシーがあるわけではない。
 実際、こういうシチュエーションでは煙草だよなあ、吸えたらなあ、と思うときはあるし、酒が入ったときには少し試してみたりすることもある。そういう立場なので、非喫煙者としては、煙草を吸う人についてはかなり寛容なつもりである。たとえば密室などで他人に煙草を吸われたとしても、なんとも思わない。いや、なんとも思わないわけではなくて、確かにやや不快には思うのだが、それを指摘して他人に忍耐を強要しようとまでは思わない程度の不快さなのである。「電車に乗っていたら隣でいきなり鼻歌を歌いはじめた」くらいの不快さであろうか。わからないか。
 ただ、煙草に慣れていない者の悲しさ、誤って他人の煙草の煙を深々と吸ってしまうと咳き込んでしまうのはどうしようもない。居酒屋などで話し込んでいて、「うーん、だからそれは(息継ぎ)がっ。ごほごほごほ。ああ、すまん、なんだったかな。ああ、だからそれは(息継ぎ)ぐっ。ぐがっ。げっほごほがほごほ」などという状態になると、私は気にしていなくても、同席した煙草飲みの人にはあてつけがましい奴と思われているかもしれない。

 そんな煙草を吸わない私であるが、最近の増税による煙草の値上がりには少々同情的になってしまう。どうなのだろう。私が煙草に依存していないので、一本につき1円値上がりというのがどういうことなのか、今一つピンとこないのである。たとえば、煙草の代わりというと私にとっては酒ぐらいしか思い付かないのだが、いつも飲んでいる缶ビールが20円値上げされたらどうか。うーん。別になんとも思わないかもしれない。新幹線の中で高いビールを買ったり、味の差もよくわからないのに「やっぱりエビスだよねっ」とか言いながらコンビニの棚を漁ったりしている私であるから、長い間値上げに気がつかない可能性さえある。

 まあ、税金の取られかた、というのはお金を集める手段だけに、これで公平であるとすべての人が納得する方法はないと思われるのである程度は仕方がない。ただ、一つこれは言っておきたいのだが、消費税については、私は割と肯定的なのである。ひねくれた見方に過ぎるかもしれないが、本来所得に対して税金が掛らない宗教法人のようなところも、お金を使う限り消費税は取られているのだ、と思うとうれしくて仕方が無いのだがどうだろうか。

 不慣れな政治向きの話をしてしまった。政治不介入せいじふかいにゅう。と、呪文を唱えて心を落ち着けたところで、唐突に数学の話をする。無限には大小がない、という話である。たとえば、
1、2、3…と続くすべての自然数
2、4、6…と続くすべての偶数
…−2、−1、0、1、2…と、両側に広がるすべての整数
とならべてみたとき、どの数列が一番長いと思われるだろうか。もちろんどれも無限であるが、あえてその大小を論ずるとして、どちらが多いか、または同じか。

 これが、どの数列も同じ長さ、なのである。そんな馬鹿なと思われることだろうが、事実である。たとえば、1、2、3…と2、4、6…の数を一対一に対応させてみる。前から順番に1と2、2と4、3と6…というように対応させることができる。nと2nとが対応するわけである。で、これを「最後まで」やったとして、どちらかがどうしても余るということはあるだろうか。いや、ない。nにはかならず2nが対応するので、すべての数はもれなく自分のペアを持っている。したがってこの2つの集合は同じ数ということになるのである。
 はてな、2と2、4と4と対応させてゆくと自然数のほうが半分余るぞ、というようないちゃもんをつけてはいけない。それを言えば、1と4、2と8、3と12と対応させてゆけば、偶数の方が半分くらい余るのだ。ここで重要なのは、どうにかして一対一に対応させることが可能である、ということなのである。

 詳しい説明は省くが、上でもう一つあげた数列、整数と自然数も一対一対応できるので同じ数ということになる。それどころかすべての有理数(分数であらわされる数)もこれらと総数は同じである。無理数(πやルート2のような、無限小数)まで行ってようやく「自然数よりも多い無限」が出てくるのであるが、ここまで複雑な話はこの雑文には関係ない。

 自然数と偶数の数が同じである、ということを利用すると、こういう話ができる。あるところに自叙伝を書いている人がいる。二〇歳の時に自分の伝記を書き始めたのだが、自分の生まれた最初の一日のことを書くのに二日かかってしまった。このままのペースで書いていったとして、果たして彼は自叙伝を完成できるか。…もちろんダメだ。八〇歳まで彼が生きたとして、その段階で完成している伝記は三〇歳までの分に過ぎない。

 では、この伝記は人間の伝記ではなく、たとえば社史のような、組織の伝記だったとしたらどうだろうか。彼の伝記と同じように、創立八〇年目には三〇年目までの社史が完成することになるが、人間と違ってまだまだ会社は続いてゆく。創立二百周年には九〇年目まで完成している。創立千年には四九〇年目までの社史ができている。こうして考えていくと、会社が永遠に続く限り、どの時点の社史も、未来のいつかには書かれることになる。つまり、社史はできる。決して完成はしないが、会社のどの時点での事件もすべて網羅された社史が無限の未来には読むことができるのだ。

 勘のいい方はお察しかと思うが、こういう話をしたのは、税金にこのような考え方ができないかと思ったからである。後先考えない資金投入をし、無意味な公共事業を行い、公務員が酒池肉林を楽しんだ末に財政赤字を作る。それを先送りする。1年で作った赤字が仮に2年分の税収でしか返済できないとしよう。でも、上の論理を使えばまったく心配する必要はないのである。十年目までの借金は二〇年目に返済が可能である。その二〇年目までの借金は四〇年目に返済できる。個人がこれをやると、人間に寿命があるかぎりどこかで破綻することになるが、国家というのはそもそも人間の集合体であり、どこかで終わるという性質のものではない。そう、日本という国家が無限に続く限り、いつか借金は返済できるのである。

 だから、財政赤字なんて心配しなくてもいいのだ。増税はやめよう。


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