無くてナナフシ

 無くてナナフシということわざはないが、ナナフシという昆虫がいる。あなたが虫嫌いの人でなければ「ナナフシ」でネットワーク検索をかけてみるといい。長細い体に節を持ったこの昆虫、実に木の枝によく似た姿をしており、それだけならまだしも、待機状態のときはまさに「俺は木の枝なんだぜ、だから幹に対してこういう角度で生えているんだぜ」というポーズを取る。どれくらい木の枝に似ているかというと、野良仕事に出かけたお百姓さんが、木の枝に間違えて土瓶を引っかけて割ってしまうため、ドビンワリなどという名前をたてまつられているくらいである。こうしてナナフシは鳥などからの捕食を免れているのだろう。
 こういう擬態による防御戦術をとった昆虫は他にもあって、一見して木の葉にしか見えないコノハチョウとか、白い蘭の花弁にそっくりな姿で蜂などをおびき寄せるハナカマキリなど、思わず見とれてしまうほどの水準に達している。見とれてしまうといえば、関係ないが「ナナフシモドキ」というナナフシに似た昆虫がいる。さっき写真を見たのだが、これが大体私のボーダーラインであって、これ以上芋虫に近づくと恐怖心がむくむくと胸にこみ上げてくる。昆虫学者は本当に偉いと思う。

 さて、こういった完璧な擬態を示す昆虫は、どうやってこの世に生まれたのだろうか。ナナフシも、もともとは普通の昆虫から進化したはずである。最初はどうだったのだろうか。普通の昆虫だったはずのナナフシの祖先は、そもそもどうして、木の枝に擬態しようなどと思いついたのだろうか。
 「ちょっとだけ木の枝に似ている」ということがどれくらい生き残るのに役に立つのかというとこれは難しい。たとえば、バッタのようなものがナナフシのように進化するためには、最初になにかに木の枝に間違えてもらわなければならない。つまり、たくさんいるナナフシの祖先のうち、木の枝に似ていないのは鳥に食べられてしまい、木の枝に似ているのが生き残る、ということを繰り返さなければ、だんだん木の枝に似てゆく、という過程は始まらないのである。
 これをもって、進化という過程自体に疑問を呈することもできるだろう。誰もだませないほどボンヤリと何かに似ていることによって利益を受ける状況があるとは思えない、というのである。

 適者生存、淘汰による進化ということで言えば、これは人為淘汰の例になるのだが、有名なヘイケガニの話がある。ご存知だとは思うが、瀬戸内海で捕れるカニで、甲羅の凹凸が見事に憤怒の形相をした武者の顔になっているというものだ。もともとは普通のカニだったはずのヘイケガニが、こういうカニになってしまったのは、漁師がカニを捕まえたとき、甲羅の模様を見て「これは平家の武者の怨念が乗り移っているに違いない」と、海に戻すということを繰り返した結果、人間の顔に似たカニばかりが生き残ることになったのだと説明されている。これも最初はどうしてカニなどを人間の顔に見間違えたのか、という疑問が生じてしかるべきである。ただ、もともとカニの甲羅というのは、普通のカニでも、たぶんたまたまだが、どこか人間の顔を思わせることが多く、最初の一歩は容易だったのかもしれない。

 さて、この話を思い出したのは、先日友人と話していて次のような話になったからである。
 最近のテレビを見ていると本当にこちらのことを馬鹿にされているような気がする。説明過剰で、しつこいほどの「わからなかった人対策」がとられているというのである。たとえば出演者が「親の顔が見たいよ」と発言する。すると「親の顔が見たいよ」と画面にテロップが出る。笑いどころを教えてくれているのだ。さらに、場合によっては「○○氏(××氏の父親)」というテロップとともに顔写真がでることさえある。誰だっけ、という人対策になっているのだ。そんなことを教えてもらって笑ってなんになるのか。こんなことでいいのか。

 しかし、と私は思うのである。なるほど、ああされなければ笑えないというのはちょっと情けない気がする。しかし、いつでも我々はテレビを一生懸命見つめているわけではないのだ。
 たとえばアイロンがけをしながらテレビを見る。あるいはテレビに関係ない話題で談笑しながら見る。そういった状態ではテレビに割いている神経というのはほんのわずかでしかない。眠る寸前の時、深酒をしたときなどもそうである。あるいは、周りが騒音に満ちていて断片的にしかテレビの音声が聞き取れないかもしれない。そうしたときにテロップなどのスーパーインポーズされた情報は確かに役に立つ。不注意な状態で見ても面白く出来ているのでそれでいいのだ。考えてみれば、テレビというメディア自体が、もはや正座して神経を集中して見るものではなくなっている。必ずしも見ている人間の知能の低下を意味しているのではないのである。

 さて、ナナフシの話に戻るが、ちょっとだけ木の枝に似ていることが、時々は生き残りの助けになるというのは、このテレビの例に似ている。暗やみや薄暮、あるいは視界の端でちょっと見えた場合など、捕食者が獲物を探す、その精度には「ぜんぜん注意していない」から「集中してじっくりと探す」という間にわたる広い領域がある。擬態がどんなに不完全でも、たとえばただ何となく木の枝に似ているだけでも、より目立つ色をした仲間に比べて捕食を免れうるシチュエーションというのが必ずある。不注意な捕食者ならだませる、という不完全な擬態に生き残るチャンスが生じるのだ。一方、あるときには太陽の十分な光の下で、間近にいる捕食者をだます必要があるなど、不完全な擬態では役に立たず、完璧な擬態が必要になる場合もあるわけで、こうして進化し始めた擬態は、芸術的な領域まで高められてゆくのであろう。

 ところで、こうしてこの雑文をご覧のあなたは、この文章をどういう状態でお読みだろうか。私が自分で読み返したところによると、私の文章は疲れているときに読むとなかなかうんざりする文章なのだが、この間ワインをビン半分くらい飲んだ状態で読んだところえらく面白かった。どうしてかはわからない。一応、ワインをかたわらに置いて不注意な状態で読まれることをお勧めします。


※参考文献:リチャード・ドーキンス「ブラインド・ウォッチメーカー」
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