終わらない仕事の先に

 今考えると、彼女は一風変わった高校生だった。彼女、「初瀬ちゃん」が私の前に現れたのは、私が高校三年生の春である。私が部長をしていた部活動への新入部員の一人として、彼女は登場した。二つ年下で、後で知ったのだが私と同郷だった。

 普通、私たちは苗字で呼びあっていたから、初瀬ちゃんが例外的に苗字でなく名前で呼ばれていたのはなぜだかわからない。多分、彼女は「田中」とか「藤原」とかなにかそういったありふれた苗字で、グループにいる、他の級友とごっちゃになってしまうからなのだろう。からなのだろう、というのはつまり私が彼女の正確な名前を覚えていないからなのだが、「はつせちゃん」と呼ばれていたのは確かだ。初瀬、と漢字をあてるのだろうか。美人というのではないが、小柄で、可愛い感じの女の子だった。

 私たちが高校で入っていたのは化学部だった。化学部というと、物理部ほどではないにせよ、女子の園になるような部ではない。とはいえ、特に薬学部なんかを目指す女子は意外に多く、化学部をそれにむけての一ステップにしようと思ってかどうか、少なくともそのころの化学部は女子の割合が少なくはなかった。だから、初瀬ちゃんの存在は、最初わたしにとって数多い新入部員の一人でしかなかった。

 しかし、たった一つ、彼女を他の存在から浮き上がらせていたのは、新入部員歓迎会の時に、ちょっとした会話があったことだ。初瀬ちゃんは、私と同じ中学の出身なので、生徒会役員などをやっていた私のことを知っていても不思議ではない。不思議だったのは、彼女にとっての私が、「生徒会で会計をやっていた人」ではなくて「よく作文を文集に書いていた人」だったということだろう。
「あのう、部長って、あの『蛾』の人ですよね」
 初瀬ちゃんは、同級の仲間と雑談している私のところに来て、こんなことを言った。
「えっ」
「ほら、『あゆみ』に載っていた」
 「蛾」というのは、私が中学校の国語の授業で書いた作文の題名である。下校途中に見かけた蛾が、つばめに食べられる瞬間に胸に去来した雑感、のようなことを書いた文章だった。先生に気に入られたらしく、あとで文集に採用されていた。
「ああ、ああ。そう。僕が書いたものだよ」
「やっぱり。あれ、良かったです」
 こんなことは初めてだったので、私は嬉しいような、気おされるような、複雑な気分だった。あれはちょっとあざとい文章で、自分ではどうかなあ、と思ってはいるんだけど、というような話をすれば良かったのかもしれないが、幼い高校生であるところの私の口をついて出たのは、「ありがとう」という言葉だけだった。彼女はにっこり笑うと、同級生たちのところに去っていった。

 自分の書いた文章のことを気に入ってもらえるほど嬉しいことはない。ただ、閉口したのは、彼女がそれから私のことを「蛾の先輩」と呼びはじめたことだ。「初瀬ちゃん」の同級生たちにたちまち伝播したために、私のことを部長と呼ぶ後輩が一人もいなくなったほどである。私の苗字が「ガノ」だと思っている後輩もいたのではないだろうか。

 高校三年生の一年は短い。化学部は結局、それほど熱心に活動をする部ではなかったから、初瀬ちゃんとも、会えば挨拶をする程度のつきあいだった。そうして、いつの間にか季節は夏になっていた。

 その日、期末試験を控えた梅雨明け間近なある日、私たち化学部は久しぶりに部室に集まっていた。化学部では毎年夏休みの活動として、高校の近くを流れる河の水を採集し、その水質を検査する、という活動を行っていた。それは化学部とはちょっと違うのではないか、という気がいまだにするのだが、それに、夏休み、お盆近くというといろいろと忙しい部員も多いのだが、なにしろこれをやっておかないと秋の文化祭で発表するネタが一つ減ることになってしまうのだった。その日は、夏休みを控えての打ち合わせだった。
 まだ部長をやっていた私は、それぞれの部員の家の位置を考えに入れながら、水を採取する場所を割り振っていった。河から水を採取するにあたっては、長いヒモをつけた試薬瓶を使い、橋の真ん中からゆっくり下ろす。一回水を捨てたりして、ちゃんと流れの速い部分の水を採取するのである。水はその後部室に持ち寄り、「化学的酸素要求量」とかなにかそういった数値を検定することになる。

 正直言って、割り振っていて初めて気がついたのだが、初瀬ちゃんと私が、出身地が同じものだから、一緒に水を採取する班になっていた。だから、班ごとに採取計画を立てるように、となったときに、彼女と私は、待ち合わせ場所などを打ち合わせることになった。
「一緒ですね、蛾の先輩」
「うん。ま、水を取ってくるだけだから。瓶は私が預かっておくよ。待ち合わせは、そうだな、もうちょっと後で決めよう」
「え、どうしてですか」
「そうだなあ、何となくこれからまだ期末テストがあるかと思うと、気が重くて、それどころじゃないような」
「あはは」
 初瀬ちゃんは笑うと、こう言った。
「そういうときは、意識を『飛ばす』んですよ、蛾の先輩」
 妙なことを言うものだ。エスパーのような。
「意識を、とばす、だって」
「ええ、知りませんか。期末、来週ですよね。来週の土曜日になったら全部終わってるじゃないですか」
「あ、ああ」
「だから、そこまで意識を『飛ばす』んです。一週間後、土曜日になって、ああ、終わったなあ、と思っている自分まで、意識を飛ばすんですよ」
「そんな、バカなことを言って」
「そうですか。でも、ふと気がついたら土曜日になってますよ、きっと」
「わからん子だなあ」
 私は首を捻るしかなかった。終わったときのことを想像する、というようなことだろうか。試験に備えた勉強をしなければならないのは同じではないか。むしろ、そんなことを考えて気を楽にして、せっぱ詰まって勉強するという意識をなくしてしまうとちょっと困ったことになるのではないか。

 私がこの話を思い出したのは、夏休み、水を採取するために初瀬ちゃんと会ったときのことだ。炎天下、白い制服を着た初瀬ちゃんは、水を採取する予定の橋のたもとで私を待っていた。
「さっそくやろうか」
「はい」
 橋から瓶をつり下げる、私。涼しい音をさせて、水をはね上げる、試薬瓶。試薬瓶を橋の欄干に当てないように注意して引き上げながら、私は沈黙に堪えかねるように、言った。
「そうだ、変なことを言っていたね。意識を飛ばすとかなんとか」
「あ、ええ。はい」
「まだよくわからないんだけど」
「えっ、でもほら、気がついたら、終わっているでしょう、期末テスト」
「あ」
 その通りだった。永遠に続くような気がしていたテスト期間は、確かに一ヶ月以上前に終わり、夏休みになっていた。あのころは何を悩んでいたのだろう、と思わせるに十分な期間だった。
「ね」

 受験を控えた私たち三年生の部員としての仕事は、この水質検査でおしまいになったので、それ以来、初瀬ちゃんとは会っていない。しかし、今でも私は、苦しい仕事、終わらない仕事に直面すると、彼女に言われた通り、意識を「飛ばし」てみる。そうすると、確かに少し、気が楽になるのだ。


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