「遠山の金さん」などを見ていると、金さんの裁きの結果というのはだいたい市中引き回しの上打ち首獄門なので、極悪人の裁きばかりやっていたのではないかと思ってしまうが、江戸時代の奉行所というのは、刑事裁判の他に民事裁判も行っていたのだろうか。考えてみれば、商家同士の取引を巡るもめ事とか、遺産相続を巡るいさかい(長男が家を継ぐか、より有能な次男が継ぐか等々)などの処理もしていたはずで、というよりもむしろその方が件数としては多かったのではないかと思うのだが、そういえば典型的な民事裁判として「大岡裁き」の逸話に、子供を奪いあう二人の母親、という話がある。
一人の小さな子供と、二人の母親が訴えに現れる。二人の女性は、どちらも自分の子供だと主張している。簡単には判断がつかない。そこで、お奉行様は二人に子供を両側から引っ張らせてみる。両側から力まかせに引っ張られた子供の悲鳴に、思わず手を放してしまう母親の一人。そこで大岡越前は「子供の痛がる声に手を放した方こそ本当の母親」と裁きを下す。
この話は伝説的な名奉行を装飾するエピソードとして、後から作られた話だと言われていることは知っているが、それを割り引いてお話として読んでも、どうもこの話は納得できないところが多すぎる。まず、偽の母親が、縁もゆかりもない子供を自分の子供だと主張したというのがこの話の発端なわけだが、既にかなり常軌を逸している。どんな動機があってそんなことをするのか。話の流れからして一方の母親は当然嘘をついているわけだが(自分が本当の母親であると思い込んでいる女性が二人、だと、裁きの正当性がなくなってしまう)、いったい自分のでもない子供が欲しいものか。人さらいだろうか。さらに、母親達の主張が、本人達の言い分だけでしか証拠立てられないというのもおかしい。父親はいないのか。近所に事情を知る人はいないのだろうか。そこのところを調べないで裁きを下しては裁判官としてちょっといいかげんに過ぎるのではないか。
ある友人によれば、このエピソードには、下敷きとなっているかどうかは不明ながら、よく似たものがソロモン王の話として残っているのだそうである。ただ、ソロモン王の逸話では、「それなら、半分ずつ分けるが良かろう」と刀をとりだして子供を真っ二つにしようとした。慌てて止めに入ったほうが真の母親、という結末だが、ということは、もう一方の母親は「半分の子供」でも、まあいいや、と思って黙って見ていたわけだろうか。確かにそんな母親に育てられてしまっては子供もたまったものではない。しかしそれを言えば、大岡裁きにしても、まさか腕が抜けるほどの力ではないのだから、そして自分に育てられたほうが子供は幸せになると信じているのだから、この場だけは子供が痛がっても無視、という愛情のありかただっていいと思うのだが、そのあたり大丈夫としているのだろうか。
この子供はどちらの子供か、など、一つしかなくて分割できない物について争うのはむずかしい。そのあたりを人情にすり替えてすぱりと解決しているから大岡越前は偉いとなるのだろう。それに比べると、ソロモン王のとった方法は、与えられた問題についてまっすぐ考えた末の直接的な解決法であって、とんちで解決というよりは、「難問に逆上した帝王、でも結果としては良かったね話」のように見える。もちろん、実生活においては、こんなに素直に解決することなどなく、世の中は分けられないものをなんとか分けようとする実例だらけなのである。これは私たち大西家の三兄弟にも、しばしば訪れる問題だった。
あるとき、私の母が旅行に行き、私たち三兄弟に土産を買ってきた。同じものを3つずつ、であれば争いは起こらないのだが、何を考えたのか、母はいろいろと価値の違う品を一つずつ、さまざま購入してきた。それを兄弟に渡して、あとは勝手に分けるがよろしい、というお達しである。罪作りなことをするものだ。お土産は次のような品々だった。
・テレホンカード。金箔加工。
・金属製のバスの模型。鉛筆削り付き。
・金属/プラスチック製のクラシックカーの模型。鉛筆削り付き。
・なんだかよくわからないが、ピアノのような、古い楽器らしきものの模型。鉛筆削り付き。
・ホテルに泊まったらくれる歯ブラシ。
・絵はがき。
・マカデミア・ナッツ・チョコレート。
・その他、観光バスのなかで配られたいろいろなお菓子とジュース。
母はなにやら鉛筆削りが好きなのであった。私たちは、最初にお菓子を分けた。これも、チョコレートはともかくとして同じものは一つもなかったのだが、まずはすんなり行った。次に分けられるのは曲がりなりにも三点ある鉛筆削り群である。あえて言えばクラシックカーがやや上等かな、というところだが、役に立たなさそうということではどれも大差ない。楽器が私、年長の弟がバス、年下の弟がクラシックカーとなった。
で、残ったのが「テレホンカード」「絵はがき」「歯ブラシ」である。この時点で既に戦略が間違っていたことに気づいてもよさそうなものだ。これは誰が見てもテレホンカードが一番価値のある品である。そもそもどうしてお土産に「ホテルの歯ブラシ」なのか。おかしいぞ母。しかし、おかしいのは私たち兄弟も同じで、声の大きさとか、力の強さとか、お土産にかける情熱の強さとか、ハングリー精神とか、そういった激しい争いの末、私が絵はがき、上の弟がテレホンカード、下の弟が歯ブラシとなった。
で、ここで私は冷静になって考えてみた。どう考えてもテレホンカードが一番上等である。どのくらい上等かというと、あとのお土産全部とつり合うくらいに上等である。私ならテレホンカード一枚をもらってあとの権利を全て放棄しても構わない。
「なあ、おかしいんじゃないだろうか、この分割法」
わたしは、無理だろうな、と思いながらも弟に言ってみた。
「テレホンカードを私がもらえないのはしょうがない。でも、おまえがそれを手にした上に、お菓子と、バスの模型もわが物としているのはどう考えてもおかしい。だって私なら、テレホンカードと他の全部を取り換えてもいいもの。つまり、テレホンカードをよこせ。そうでなかったら、他の全ての土産を放棄しろ」
既に一度土産を分割していたのはどう考えても失敗だった。この論理的な主張にも弟は頑として首を縦に振らなかったのである。最後には声のデシベル数が全てを決定して、私の手元にはなんだか楽器みたいな鉛筆削りと、絵はがきと、お菓子が残った。
分けやすいところから分けると失敗する。まずは価値で三等分するべきである。そんな教訓であろうか。
それにしても、どうしてあんな金色のテレホンカード、欲しかったのかなあ。