一枚きりのチップ

 私がよく読んでいるある作家の言葉に、このようなものがある。「人生は賭けのようなものである。しかし、賭けることのできるチップは一枚きり、そしてそのチップはどんなに賭けに勝っても絶対に増えない」つまり、生命のことを言っている。結局のところ、人生とは勝ちのない勝負で、自分の人生というチップを張る賭けを繰り返し、どれだけそのゲームが楽しかったかだけが勝利の基準になるのである。賭けないという選択はできない。時が来れば、一枚きりのチップは場にさらわれて、ゲームは終了する。

 この言葉は、登場人物の一人が友人に、今の仕事を辞めて私と一緒に面白い仕事をしないか、と誘う場面で用いられるのだが、本当に、大きな運命の分岐点に臨んでは、こういうとらえ方が役に立つと思う。一般的に言って、新しい環境に移行すると、かならずロスが生じる。創造的な仕事ができるようになるまで、一からやり直すのでは数年間も準備期間が必要かも知れない。しかし、それもゲームでより大きな満足を得るための賭け金と考えればいいのだ。この四月から別の環境へと進まれる方、どうか、あなたのその賭けが、大きな実を結びますように。

 さて、生きてゆくには面白くないゲームにも参加しなければならないことはある。とはいえ、その面白くないゲームで得た生活の糧を使って、趣味に打ち込めるならそれはそれでいい。今回は、趣味について考えてみたい。

 「趣味」という言葉に値するものを、もっと引き下げてもいいのだが、とりあえず「他人が見ると大変な手間を費やしているように見えるのだが、本人は楽しくてその手間が苦にならない」ということとする。さっきの例えを使うなら、チップを賭けないと勝負は面白くない。趣味とは、人生のいくらかを浪費することで、大きな満足を得るものと考えたい。

 この定義を使うことにすると、実益を兼ねるものは趣味かどうかという話になる。たとえば私の祖母は祖父や父母と共に長い間野菜を作っている。農業を趣味といっては怒られてしまうが、自分の畑で野菜を作り、それを親戚や近所に配り歩くのである。かかる費用は自分の手間だけではない。種や肥料は購入しなければならないのだ。それでもなおやっていたのだから、やはり趣味なのかもしれない。
 ところが、最近、日曜市場のようなところに出来た野菜を売りに行くようになった。一束百円とかの値が付き、無人ではないのだが、そういう市が農協かなにかの主催で毎週立つのである。そこで一週間に数千円の儲けが出るようになると、これはちょっと趣味とは言えないのではないかと思う。儲けが出るなら、たとえもう楽しくなくても、得た賃金で楽しいものが買えるのであるから、続けることが出来る。つまり、趣味でもなければやっていられなかった野菜作りが、仕事になったのである。もっとも祖母にしてみればこうして得たお金で自分のものを買うことなどほとんどないので、孫に配るのが野菜ではなくお金になっただけなのかもしれない。

 「読書」という趣味がある。実益をあまり伴わないと言えると思う。少なくとも普通にするようにエンタテイメントを読んでいる限りにおいては実益はほとんどない。しかし、趣味は何ですか、と聞かれたときに、「読書」と答えるのは、つまり趣味がないです、と答えるのと同じことである、と言ったのは、私の大学生の時の担当教官である。無趣味な人に限って「読書」と答えたがる、ということだと思うが、これは真実を突いているのではないだろうか。

 似たような無趣味の趣味には「音楽鑑賞」がある。確かにかつて、「音楽鑑賞」は全くの趣味だった。エジソン以前、生演奏を聞きに行かなければならない時代はもちろんのこと、レコードになってからもしばらくはその趣味はあまりに時間と手間をとられるものであり、手間を惜しまない人たちだけにとっての贅沢だったのだ。しかし、CDになってからはがらりと変わった。いまや、CDは全くメンテナンスフリーでその寿命の間役に立つものになっている。買ってきた千円から数千円のCDをセットし、プレイボタンを押せば音楽が鳴る。なにも難しいことはない。これによって奪われる人生は、わずかなものでしかない。

 だからこそ、これらは「趣味」には値しないと思うのである。めったに手に入らない本を探し求めて古本屋を巡り、定価の数倍を支出してそれを買い、熟読してその批評を書きつけるというような強烈な本との出会いを、われわれはほとんどしない。徒歩で数分の本屋で、新刊本を適当に買い、片手間に読むだけである。それは、食事をすること、朝起きて顔を洗うこと、出勤の時に最寄りのバス停まで歩くことと同じ、ただの習慣ではないだろうか。そこにいくらかの工夫もないのに、趣味と言ってはいけないような気がする。「寝ることが趣味」という言葉を聞いたときと同じような、空虚な気分になってしまう。

 かくいう私も、趣味といえば読書くらいしかない。私の大学生活の始めの頃なら趣味は「ゲーム」、あるいは「プラモデル制作」と胸を張って言えた。大学生の趣味として「ゲーム」や「プラモデル」がふさわしいかというと胸を張っている場合ではないが、これらを趣味にしていたのが確かだ、という意味である。「ゲーム」は、自分でデータ表を作ったり、隅々まで研究してメモを残したりしているので、立派な趣味と言っていいのではないかと思う。だが、今はもう、ゲームはやらないではないが、同じソリティアでもう1年も遊んでいる有り様であり、趣味というのはもはやあまりにお手軽に過ぎるものへと、退化してしまった。もう一方、プラモデルのほうは、例の震災の時にコレクションが大部分破損してしまって、なんとなくやる気が失せて現在に至っている。

 では、こんな「大西科学」なるページを立ち上げて、一年に百本も雑文を書くというのはどうだろうか、趣味ではないだろうか。まず、確かにこれには実益は伴っていない。だいたい、ホームページを設営することで何がしかの対価を得ている人など、非常に少数なのではないか。では、人生のいくらかを浪費しているだろうか。確かにしている。第一ゲームをやる時間が無くなった。テレビもあまり見なくなった。そして、そういうことであれば、これは立派な趣味ではないか。

 しかし、その根本において、やはりこれは趣味ではないと思いたい。まず、長らく会っていなかった友人と再び出会えたり、新たな知りあいをたくさん得ることができた。自分の文章を読んで、さまざまな感想をいただいたりした。カウンターも、一万五千を越えた。こんな目にみえる反応がすぐに現れる、ストイックさに欠ける作業を「趣味」と言ってしまっては、申し訳ないと思うのだ。趣味とはもっと、自分と対象との間だけのものだと思うのだ。
 そして、だからこそ、皆さまに深くお礼を申し上げます。みなさんのおかげで、百回、続けることができました。私にとってページの設営が、「趣味」になってしまわずに済みました。ありがとう。そして、これからも、まだ私に愛想を尽かしていらっしゃいませんでしたら、どうか、今しばらくおつきあいのほどを、よろしくお願いします。


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