あっぱれさかなセンター

 焼津に行ったら、さかなセンターを訪れなければならない。私たちの家族の間ではそういうことになっている。

 私の弟が、静岡県にある樹脂メーカーに就職して三年が過ぎた。去年から私も関西を離れ、埼玉勤務となったので、兵庫県にある実家に比べればまだお隣同士のような関係になっている。静岡−兵庫というと、一人なら新幹線で移動したほうが安いが、二人以上なら車で移動して高速道路代ガソリン代その他を払ったほうが安くあがる。そういうわけで、正月、盆、法事、親戚の結婚式などで二人して帰省するときには、私はよく弟の自動車に同乗させてもらい、静岡と兵庫県の間を移動するのだ。

 その日、法事のため帰省せんと、東京から「ひかり」に乗り込んだ私は、一眠りする間もなく静岡駅に降り立った。そこから東海道線に乗り換えて「あべかわ」「もちむね」という何だかウケを狙ったような配列の駅を乗り越すと、やがて西焼津駅につく。この駅はレーザーで測量したようなまっすぐな線路の真ん中にある駅で、この駅のホームに立っていると、次の電車が地平線の向こうからやって来るのが見える。東海道線だけに貨物列車も多いので、そんな列車を見ていると、遠くにぽつんと見えた列車が、速度を落とさないまま大音響を残して駅を通過し、再び時間をかけて小さくなってゆき、やがて彼方に消えてゆく。意外に地平線は遠い、ということがわかって面白い。

 いつものように雑文のネタなど考えながら駅の改札をくぐった私は、迎えに来ていた弟に「なぜ無視するのだ」と声をかけられてぎくりとした。慌ててその場を取り繕って挨拶する。
「いや、すまんすまん。女の子に見とれていた」
「女の子なんてどこにもいないじゃないか」
「む、わからんかな、私の胸の中にいるのだよ」
「けっ」
 兵庫県目指して車での移動を開始した私たちは、しかし高速道路に乗り込む前に当然のように「焼津さかなセンター」を訪れた。さかなセンターとは、焼津漁港から上がった新鮮な魚介類を一般向けに販売している巨大な魚市場である。東京ドームの1.5倍ほどの敷地は、アーケードで覆われ、そこを魚屋が埋め尽くしている。
 想像がつかなければ、まず、あなたの家の近くの駅前にある商店街を思いだして欲しい。つぎにその商店街の店舗がすべて魚屋になったところを想像してみよう。それとさかなセンターは、限りなく近い。

 車を駐車場に止めると、小雨の降る中、私たちは焼津さかなセンターの門をくぐった。暗やみに目が慣れると、そこはもうさかなワンダーランドである。魚の切り身を並べる店の次にはタコまるごとを商う店があり、そのとなりには海苔など加工食品が並べられている。イカの塩辛をその場で瓶詰めしているかと思えば、次の店にはひたすら辛子明太子だけが扱われている。魚屋といっても、バリエーションは豊富である。
 さらに、入り口のところには、市場と連携して「さかな大食堂」というレストランがある。いい名前ではないか、さかな大食堂。大食堂なのである。なんだか松本零士的な命名である。銀河鉄道999の駅名のようだ。「次の停車駅は、『さかな大食堂』。停車時間は、23日と4時間13分」「メーテル、『さかな大食堂』だって」「そうね鉄郎。まぐろステーキがおいしいわよ」。おいしいかもしれないが、23日も魚ばかり食べられるものか。って誰に怒っているのか私は。

 しかし、とりあえず「大食堂」には用はない。携帯電話で目的地である実家と連絡をとった私たちは、桜エビを買ってこいとの指令を受けた。桜エビとは、お好み焼きなどに入れる小さい乾燥エビのことである。さかなセンターで本来購うべき新鮮な魚介類ではないのだが、さてとあたりを見回してみれば、意外にリベラルに、桜エビの袋の一つも置かれていない店はない。

「おばちゃん、これなんぼ」
 これは、という店で聞いてみる。一袋五〇〇円と書いてあるのだが、尋ねてみるのである。関西弁で。
「はい、一袋五〇〇円」
「まけてえな」
「まかりません」
 むむむ。粘り強く交渉することもできるのだが、ここは折れておくのである。なんといっても、七、八軒見た店の中でそこが一番安かったのだ。
「…7つちょうだい」
「まいど、ありがとう」
「せやなあ、ええ袋にええといて。ええ袋に」
 とまあ、最後の抵抗を試みるのである。関西弁で。
「じゃあ、このさかなセンターのロゴ入りの袋にいれておくわね」
 ちっともいい袋ではない。

「しかし、なぜに桜えびなのか。その上7袋ときた。帰ったらお好み焼きばかりかもしれないな」
「それは、嫌だなあ」
 といったようなことを話しながら歩いていた私たちは、次の店のショーケースの前で足を止めた。
「なあ兄貴。『まぐろブロック』があるな」
「ああ」
「うまそうだと思わないか。あれを分厚く切るな。冷えたビールをジョッキに注ぐな。醤油とワサビをつけてバクバク食べるな」
「く、むむ。ビールか」
 車での移動の難点の一つは途中、アルコールを口にできないことである。飲めないだけに、酒と五百キロメートルの距離で引き離されている今だけに、なおさらビールという言葉に弱い。
「日本酒でもいい。燗するんだ。あつかんで一杯。地酒をこう、買ってきてな」
「う、うううう」
「おっちゃん、このマグロ、うまいんか」
 葛藤する私を残して、弟は店のオヤジに声をかけた。
「ええ、それはもう、料亭に卸しているのとおなじマグロですから、美味しいですよ」
 私は、財布を取り出しながら、言った。
「ください」
 生まれ変わったら、欲望に負けない、もっと強い人間になりたい。生まれ変わったあとでいいけど。

 こうして目的を果たした私達の前に、巨大な魚体があらわれた。客寄せとか、そういう意図で展示してあるものだと思う。魚体、そうとしか言い様がない、巨大なまぐろの塊である。全長二メートル、幅一メートルを越えたその肉塊はまさに圧倒的だった。地球の海に、そのような生物が存在することを私たちは忘れていた。人間によって捕獲され、水の領域から土と風の領域へと運ばれてなお、その巨体は巨大さのみにおいて私たちを圧倒し、生命のあり方についての何事かを語りかけていた。
「す、凄いな」
「ああ、凄い」
「うまそうだな」
「いやそこまでは思わん」

 思えば、そのまぐろにすっかり飲まれてしまったのが敗因だったのだろう。出口のところにある別の店で、辛子明太子が山盛りになったパックが千五十円で売られているのをみて、思わずふらふらと買ってしまったのである。海の恵みに圧倒されたわたしたちに、抗うすべはなかった。

「いや、いい買い物をした。『さかなセンター』、さすがである。いいものも見せてもらったし」
「今晩が、楽しみだな、兄貴」
「おう。チョー楽しみだ」
 早くも気持ちを実家の食卓に飛ばしつつ、口中につばをためこむ私達であった。


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