レイン・クラッシュ

 この日本の自転車ライダーたちを悩ましてきた問題の一つは、車道と歩道のどちらを通るべきか、という問題である。高校時代を通じて千五百時間を超える時を自転車の上で過ごし、その後も着々と自転車のスキルを磨き続けてきた私もこの問題とは無縁ではない。都会の車道は自転車が通れるほど牧歌的なものではなく、歩道は歩道で、歩行者との間に常に何らかの軋轢を生じさせることを余儀なくされる中で、その中間にあってどこにも自らの為の道路の用意されていないわれわれ自転車ドライバーは、時として非常な危険に遭遇することになる。

 朝から、なにやら雨になりそうな空模様だと思ってはいたものの、その日は夜から雨になった。さあ帰ろうかと、私の職場としている建物を出て、一歩外に出た時点で、私はこれが本当に雨であることを悟らざるを得なかった。周りが暗いと、どのくらいの雨なのか測り難いものだが、一応申し訳程度の雨であるとか、四捨五入すれば雨であるとか、雨ではあるがそれを外国でいうと笑われる雨であるとか、そういう偽の雨ではなく、本格的で骨太な大雨だったのである。

 しかし、傘はないのである。この前、職場に置きっぱなしにしていた置き傘の最後の一本を持って帰ってしまって以来、備蓄が底をついた状態にあったのだ。建物の入り口の傘立てにはまだ数本傘が残っているが、悲しいかなそれはすべて他人の傘なのだった。以前、テレビで、持っていった人の名前と、連絡先を明記しておけば、他人の傘を持ってゆくことは罪にならないという話を聞いたことがあるのだが本当だろうか。本当かもしれないが、この状況で他人の傘を持ってゆくことは非常識に過ぎる。私は、真っ暗な空をきっと睨み付けると、自転車置き場まで走った。

 爆撃機に乗って、護衛機なし先導機なしで敵軍基地に向かう場合がそうであるように、自転車に乗って、傘なし合羽なしで雨の中を強行突破する場合、唯一の武器はその速度である。なるべく濡れずにおこうと思うなら、できる限りの速さで帰り着くよう、努力するしかない。
 証明してみよう。単純な立方体が、雨の中をまっすぐ目的地まで進む、という風に単純化する。その前面、進行方向の面に当たる雨の量は、立方体の速さが速くなるほど、その速さに比例して増える。一方、その前面が雨にさらされる時間は、速さに反比例して短くなる。結局、速さがどうであろうとも、前の面が受ける雨の量は変わらない。
 次に上面である。ここに当たる雨の量は、立方体の速度がどうであろうと変わらない。時間あたり上面に降る雨の量は常に一定である。したがって、この面は、目的地までの到着時間が短ければ短いほど,濡れずに済むということになる。
 側面と背面、下面は、この仮定のもとではまったく雨を受けないから、結局、速度が速ければ速いほど、あまり濡れないで目的地にたどり着くことができるというわけである。私のいうことがすべて嘘っぱちであるとお思いの方は、雨の中でじっと立っている状態を想像して欲しい。これは速度がすごく遅い場合である、と考えることができるが、これでは目的地に着くまでいくらでも好きなだけずぶぬれになれる、ということが分かるだろう。

 というような推論を組み立てた私は、だから自転車を力の限りこいで、アパートへと向かった。私の通勤路は、ほとんどが住宅地の中の生活道路を抜けてゆくことになるのだが、時々はどうしても幹線道路を通らなければならなくなる。もちろん、車道を通るのは自殺行為に等しいので、歩道を通ってゆくことになるのだが、事件はその、歩道を走っているときに起こった。
 雨はざあざあと私の体に吹き付け、着込んでいたジャケットはたちまち雨に染まった。速度を出しているものだから、なにしろ視界が悪い。思い出してみよう。立方体の前面に降り注ぐ同一時間当たりの雨の量は、速度に比例するのである。平たく言うと、速度が速いほど、私の顔に当たる雨は激しくなるということになる。私は、左手で吹き付ける雨から目をかばいながら、それでも速度を落とさずに歩道を走っていた。

 一瞬の出来事だった。歩道の真ん中に、闇に紛れて、花壇があることに気が付いたのである。私の市は何を考えているのかよく分からないのだが、時々歩道に、直径一メートルほどの円形の花壇を作っている。原設計では街路樹でも植えるつもりだったのだろうか、今現在はなにも植わっておらず、ただ雑草が生えるままになっている、いわば障害物である。直径一メートル、高さ二十センチのブロックが、ほぼランダムに、歩道に配置されているのだった。
 視界の悪さと、最高速に近い速度のせいで、あっと思ったときには前方にその花壇があり、もう回避不可能の段階に達していた。自転車の前輪を激しくブロックにぶつけた私は、空中に投げ出され、花壇を越えて、二メートル先の地面に向けて投げ飛ばされた。

 こういう危機にあたっては、忘れていた過去が走馬灯のようによみがえるという話を聞いたことがおありだろう。あれは真実である。自転車から降り飛ばされて空中を飛ぶ私にも、過去の記憶が一つ一つ、驚くほどの長い時間をかけて、よみがえってきた。そこは、高校の講堂だった。校長先生がいつもの長い話を続けている。
「というわけで、私は、その広島郊外の小学校で、その光を見た瞬間、はっとその場に伏せたのであります。次の一瞬、訪れたのはすさまじい衝撃と爆風でした。そう、原子爆弾だったのです。教室で、なんだろうか、と窓から外を見ていた学友はすべて爆風と割れたガラスで恐ろしい怪我を負いました。私は一人、判断良く伏せていたおかげで怪我をしなかった。みなさんも、こういう自己防衛能力を高めなければなりません」
 それは先生、偶然でしょう。たまたま助かったからって、そんな自慢してはいけないと思います。
 次は、中学校だった。普段は社会科を教えている教師が、柔道着に着替えて、私達に柔道の基本を教えている。
「仰向けに寝転んで、あー、自分のへその辺りを、見なさい。これが、受け身の基本です。えー、これをやっておけば、投げられたときに大変怪我をしにくくなります。あー、ある時、私の大学の柔道部の同輩が、誤って三階から落ちました。ところが、彼は受け身を取ったために、えー、まったく怪我をしなかった。あいや、怪我はしたのですが、死ななかった。そういう大事なことです」
 どどど、どんな怪我をしたのですか。それって、大違いのような気がするのですが。

 と、再び現実に戻った私が気が付いたときには、私は地面をごろごろと転がっていた。一回転、転がってちょうど足が下にきたところで勢いが止まったので、私はまるでなにごとも無かったかのように、地面に立っていた。頭は打っていない。腕が痛いのはそっちの手で地面をたたいたからだろうか。足の付け根が少し痛いのが、ちょっと意外だったが、なにより意外なのは、こうして跳ね飛ばされて最後に両足で立っているということだった。

 高校の校長先生、あなたの教え子は、立派に自己防衛能力を持っています。中学の社会科の先生。どうやら私は無意識に受け身を取ったようです。教えていただいてありがとうございました。私はそんなふうに心の中で礼を述べると、ずいぶん離れたところに倒れていた自転車を起こし、再び家路についた。

 雨は依然変わらずに、危機を乗り越えた私に降り注ぎ、ジャケットのひじについた泥をゆっくりと洗い流していた。頭に降る雨が地肌に達して顔を流れ落ちる。それでも私は、さすがにもう、最高速は出さなかった。


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