階下のパラッパラッパー

 不規則に徹夜が入る仕事ではあり、平日の朝八時にアパートにたどり着くということがままある。朝八時に解放されて、これから一日眠ってよいとなると、なぜかすぐには眠れないものである。アパートに着き、さて寝ようかと布団に入っても、なかなか眠り込むことができない。疲れているのに、変に目が冴えているのである。しかたなく、まず家事などをしようと決意し、とりあえず溜まっている洗濯物を片づけるべく、洗濯機を回した。

 洗濯機が回っている間、スパゲッティを茹でることにして鍋に湯を沸かし、パソコンの電源を入れて、ブラウザとメーラーを立ちあげる。モデムが騒々しい音を立ててダイアルをはじめる。電子メールのチェックと、お馴染みのページたちの更新の確認。お気に入りのエッセイに、最新の話題が追加されているのを読んで、疲れた頭でちょっと笑う。鍋にスパゲティを入れて、掲示板になにやら書き込んで、接続を切る。ゆで上がったスパゲティに出来合いのソースをまぶして食べると、洗濯機が止まった。

 腹になにか入れて、ようやく眠たくなってきたところだが、洗濯物を洗濯機に入れっぱなしにすると、洗ったズボンやシャツの折り目になにか非常に哀れなことが起こるに違いない。気力で洗濯物を引っ張り出し、窓の外に干す。何という名前なのか知らないのだが、骨だけにした傘を逆さまにしたようなプラスチックの洗濯物干し(以下「傘骨」)をくるくる回しながら、タオルやTシャツ、パンツなんかを干してゆく。

 ところが、やはり疲れているときというのはこういうものだろうか、ふと手が滑ったかと思うと、目の前から突然洗濯物が消えた。洗濯物が傘骨ごと物干し竿から落ちたのだ。なにかとんでもなく非現実的な一瞬のあと、下のベランダで、バサという音がする。疲れているから、もう、びっくり声も出ない。あっ、としばらくしてから、お義理で声を上げる。あ、あーあ。
 思わず、さあ、そろそろ寝るんじゃないかな、と妙な感想を抱いたが、そうもいかない。以前、これは別の下宿だが、網戸を窓から外して、同じように落っことしてしまったことがあった。網戸は瓦屋根の上を滑ってゆき、隣の家の庭に飛び込んでひどい音をたてた。この時も、ぐずぐずと取りに行くのを後回しにするうちに、隣の家の人が、扱いに困ったのだろう、機先を制して網戸を持ってきてくれたのだった。後でこっぴどく大屋さんに叱られたものだ。しかたない。私は、階段を降りて、階下の住人の扉を叩いた。

 そういえば、私は階下の住人がなにをやっている人なのか知らない。平日の、既に時刻が9時前になっているので、だれもいない、という可能性もあるのだが、玄関のベルを鳴らすと、ほどなく扉が開き、中から住人が出てきた。
「はい、なんですか」
 私は、疲れているのも手伝って、ちょっと声を失った。出てきたのが「パラッパラッパー」だったからだ。ご存知だろうか、パラッパラッパー。プレイステーション用のゲームである。いや、私もこのゲームをやったことはない。セガ派なのだ。サターン、どうしてプレステに負けちゃったのかなあ。あ、いや、だからそんなことはどうでもいい。あなたもテレビコマーシャルなどで、最近ではウンジャマラミーに目がラブラブになったりしているパラッパラッパーの姿を見たことがおありだろう。そして、その三〇代半ばくらいの男性の恰好が、まったくのパラッパラッパーだったのだ。

「あの、上の大西です。すいません、今、お宅のベランダに洗濯物を落としてしまいまして」
 私は、ともかくそれだけを言った。なにしろパラッパラッパーであるから、身構えてしまう。しかし、パラッパラッパーでも三〇代であった。ラッパーはにっこり笑うと、はいはいと言って奥から傘骨ごと洗濯物を持ってきてくれた。洗濯物を私に手渡して一言、
「もう一回洗濯しないとだめですね」
 ああ、もう満面の笑みである。いいお隣さんである。だめですね、いえーい、とか言うのではないかと思ったが、杞憂だった。私は、もうしわけありません、もごもごと言い残してその場を離れた。いやあ、それにしても、何をしているひとなのだろう。

 それが一時間前のことである。どうしてまだ寝ていないのか。実は、泥で汚れてしまった洗濯物は、もう折り目のことはあきらめてそのままにし、寝てしまうことにしようと思ったのである。ところが、布団に横になったとたんに、階下からなにやら音楽が聞こえてきたのだ。
 ステレオをかけているらしい、音楽は、どうも宇多田ヒカルらしかった。パラッパラッパーとして、その選曲はどうなのか。それよりも、それだけならいいのだが、ラッパー、そのCDにあわせて歌っているらしい。
「ひっ、おーとまちっ」
 うひゃあ。音痴である。しかも、リピートで延々練習しているようだ。どうして、壁越しに聞くと、CDの音がほとんど聞こえないのに歌声だけはよく通るのだろう。外れた音階で、アカペラでラッパーが歌っているようにも聞こえるのだ。「だきしめらへれると、みとぱららいすにひるみはいー」。泣きそうになったが、文句をいいにゆくのは、いや、それはまずいだろう。なんといっても、洗濯物のことで迷惑をかけたところだし、考えてみればこんな時間に寝るほうがおかしいのだ。でも、これじゃ眠れないのだ。「い、ふぃーるそーぐっ、ひっ、おーとまっちっ」。まだ「ボェー」の方がマシだ。

 というわけで、今回の「大西科学における最近の研究内容」は、ラッパーの歌声をバックにお送りしました。いや、しかし、ここまで書く間に、なんか歌、うまくなっている。やるな、パラッパラッパー。


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